「野菜またお米」は一般の木、いわゆる桜とか、松の木、欅(けやき)という木と比べてみると、少し違う存在だと思います。一般の木は大きくて、強くて、長く生きているのですが、「野菜とお米」は小さくて弱い、しかも、その年で消えてしまいます。しかし、この弱いものである「野菜とお米」の力によって人間を生かすことができます。「野菜の葉、またお米の実」を通して、命を生かすことができるでしょう。ここで言いたいことは「自分が小さいから、役立つ者にならない」あるいは「弱い者だから他人のために奉仕することができない」ということではありません。ここで「数とか量的な事」の問題ではなく、むしろ「どれほど与える気持ち、奉仕する気持ちを持っているか」が大切です。
福音書では、イエス様が「からし種の例え」を用いて語られました。「天の国は、からし種に似ている」人がこれを取って畑に撒けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、枝に巣を作るほどの木になる」と。
ザアカイという徴税人の出来事はご存じでしょう。ザアカイ自身はイエス様に、自分の名前を呼ばれた時に大変感動したと思います。確かにザアカイ自身は「まさか、罪人の私、社会の中で冷たく見られている私を、主が呼んでくださった。それも、自分の名前まで優しく呼ばれたことは不思議だ。」と思っていると思います。さらに、イエス様はザアカイに対して「私があなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」つまり「あなたには私のためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪人のレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエス様は見ておられるのです。
私たちはどんな罪人、弱い人間だと言っても、イエス様にとって私たちは、大事な者だと思っておられるのです。しかも、私たちの中に素晴らしいものがあり、よいことをする力があるとイエス様は見ておられるのです。ですから、あきらめずに、神を信じて、自分を信じて生きていきましょう。からし種のように「地上のどんな種よりも小さいが、撒くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝をはる」 私たち一人ひとりの中には素晴らしいものがあり、よいことをする力があると信じましょう。どうか、これから「自分のため、家族のため、教会のため、社会のためにも、自分が役立つ者になることができますように」
主の復活
おめでとうございます
主の平和
今年2月から新型コロナウイルスによって、出口の見えない長いトンネルに入っている気持ちになっている方も多いと思います。
もう半年以上ぐらい、このコロナ禍で世界の人々が苦しんでいます。ニュースによると、このウイルスで感染者2510万、回復者1650万、死亡者84.4万人です。これだけでなく、社会生活の中でも新型コロナウイルスの影響で仕事がなくなったり、生活ができない人が増えたりしています。厳しい試練が続きますが、「世界の中にはもっと、もっと、コロナウイルスによって困っている人がいます。」という声があります。私たちはその声に答えるために、去年教皇フランシスコが訪日した際のテーマ「すべてのいのちを守るため」というテーマをもう一度反省する必要があると思います。
カトリック教会は「すべてのいのちを守るための月間」を9月1日(被造物を大切にする世界祈願日)から10月4日(アシジの聖フランシスコの記念日)まで実施します。この地球上のすべてのものが、互いの調和と尊重のうちに生きることができるよう、自分自身の生活スタイルを見直していきたいと思います。
名古屋教区は今、コロナ禍の真っただ中にあり、共同で行動することが難しい状況なので、この三つのことを参考にして、一人ひとりが生活を見直し、できることを実行していくようにしましょう。
まず、月間の最初の日曜日である9月6日のミサの中で、「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を唱える。期間中、個人で、または共同体の中で機会を設けて共に祈る。
次は、「ともに暮らす家である地球」のために、生活の中で自分にできることを考え、一つでも実行していく。
最後に、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』や『いのちへのまなざし』を読み、できる範囲で分かち合いをしてみる。
私たちが謙虚に今、できることから始めて、すべてのいのち、特にかけがえのない平針共同体を守っていきたいと思います。自分を乗り越えてゆく道を、神様が示してくださいますように。マザー・テレサは「苦しみを乗り越えるとは、「苦しみの中でくじけそうになる自分を乗り越えること。諦めさえしなければ、道は開かれます」と。
クリスマスは、典礼的にイエス・キリストの誕生を記念する祭日です。
私たちは、誕生という言葉を聞くと、頭の中に浮かぶのは、新しい命が始まる。それは赤ちゃんのうちに現れています。しかし、赤ちゃんから何かを得ることが出来るのか、赤ちゃんは何も出来ない存在なのです。小さくて、弱くて、自分で育つことも出来ません。赤ちゃんは居心地
が良い時には静かに眠れますが、居心地の悪い時には泣くしかないのです。赤ちゃんが育つためには、すべて両親から色々な世話をして貰わなければなりません。
なので、赤ちゃんは無力の存在のしるしなのです。
ベツレヘムで生まれた赤ちゃんも無力な存在なのです。しかし、私たちはクリスマスを通じて、その方の誕生を祝うのです。私たちはその無力な状態から何を貰うことが出来るのでしょうか。
イエスの誕生の前後の物語を見ると、イエスが生まれる前に、両親マリアとヨセフが周りの人々から拒まれた場面が描かれています。住民登録をするために、彼らはユダヤのベツレヘムの町へ上って行きましたが、そこには彼らのための泊まる場所がありませんでした。彼らは、現地の人々に拒まれました。さらに、イエスが生まれた後、支配者であるヘロデ王によって拒まれた経験が描かれています。この場面はマタイによる福音の中で見ることが出来ます。ヘロデ王はイエスの誕生を耳にした時、不安を抱いて、全ての二歳以下の男の子を殺すように命令したのです。
イエスの誕生は、当時の権力者によって拒まれたのです。
これらのことはイエスが生まれた時に、不安・恐れ・悲しみ・絶望などの状態ばかりに囲まれていたことを示しているのでしょう。
私たちはこのようなクリスマスから何を学ぶことが出来るのでしょうか。
さらに、マリア様がイエスを生んだ時、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。これは、とても汚い場所なのです。飼い葉桶は人間の寝る場所ではないのです。そして、夜の寒さの中で彼らはその夜を過ごしていたのです。これは何もない貧乏な状態のしるしなのです。私たちにとって、このような惨めな状況から何の希望も与えてくれないのではないか。このようなクリスマスの状態は私たちに何を教えているのでしょうか。
現在のクリスマスの祝い方を比べると、非常に正反対な状態が見られます。あらゆるところで、とても豊かなクリスマスイパーティーが行われます。そして、町の中に行くとクリスマスのイルミネーションで飾られて、とても明るく輝いています。そのために、準備の時間とお金は多くかかるでしょう。他方で、クリスマスパーティーを行う人、パーティーに参加する人、そのような豊かで輝いている場所を楽しめる人は少ないでしょうし、お金を持っている人に限られているかもしれません。
私が日本語を勉強していた時『日本の社会をしろう!』というテーマで日本人にインタビューをするという調査の宿題がありました。私ともう一人のメキシコ人の友達は、日本のクリスマスをテーマとして選びました。このテーマを選んだ理由の一つは、インドネシアとメキシコではクリスマスを祝う人が、キリスト教に限られますが、日本では宗教と関係なく、誰でもクリスマスを祝うことが出来るということが面白いと思ったからです。その調査の一つの結果は、宗教とは関係がない日本のクリスマスは、バレンタイン・ホワイトデーなどの一般的なイベントとして扱っているということでした。なので、商売の側面がかなり見られます。
イエスが生まれた時の状況、そして、現在におけるクリスマスの祝い方とはかなり大きなギャップがあります。もしイエス様がもう一度生まれるのであれば、このような世界のどこで生まれるのか?そして、私たちはどのようにその喜びを祝うのか。クリスマスの喜びの表し方は色々ありますが、私たちにとって忘れてはいけないのは、
イエス様が光であり、
私たちの心の中に生まれた
ということなのです。私たちはこれからも
キリストの光の内に生きて行きましょう!
Merry Christmas 2019
&
Happy New Year 2020
「平針教会で9月にお葬式が三回もありましたね・・・最近、お葬式が増えましたね・・・」という声があります。わたしはそれを聞くと、いろいろなことを思い出します。特に、教会で働くと年長者の方々と接することが数多くあった気がします。
自分自身が若かったということもありますが、教会での高齢化が進んでいることも、理由の一つかもしれません。
小神学校のとき、ある日授業が始まる前にこういう質問を一人の先生からされました「あと一日の命だったら、あなたはどのように生きるか」と。勿論、答えは人によって違いますが、先生が「いのちの授業の真の目的は、ただいのちの大切さを伝えるだけではありません。
たとえ辛くても、たとえ苦しくても、誰かを傷つけない、自らを傷つけないための生き方をみんなで考えていくことであると考えます」と。だから、私はいつもお葬式の説教の時に「神様はいのちの源である。そして私たち人間が今持っているいのちは神様のものです。だから、私たちはそのいのちをどのように生きているかが問われています」と話しています。
この三か月の間、教会で三つ程大きな行事がありました。まず、8月17日から19日まで教会学校の夏合宿。今回の合宿は浜松三ケ日研修所でした。この三日間で教会学校の子供たちとスタッフと共に楽しい時間を過ごし、いろいろなことを学んできました。特に、この合宿のテーマ「神様の声に耳を傾けよう―君も僕も大切な子供―」を通して少しでもいのちの大切さを学ぶことが出来たかなあと思います。
次に、9月8日にアフリカのケニヤで司牧している神言会の司祭、佐藤 新神父様が当教会で素敵なミサを捧げて下さいました。ミサ後、宣教地でのいろいろなお話を聞きました。
最後に、9月15日に教会で敬老の日のお祝いがありました。ミサ後に敬老の日を迎えられた方々に塗油の秘跡を授けてから、ホールで茶話会とお祝いがありました。
「年をとることは人生の栄光であり、偉大な恵みである。高齢者の存在を木で例えられるなら、落葉ではなく、その木自体に存在する力ある根っこである。だから、年長者はたとえ体力がなくても、一つの大きなことができます。それは祈りです。神様は最後にいちばんよい仕事を残してくださいます。それは祈りだ」と話しました。
先月から平針教会で聖体礼拝式を始めました。聖体礼拝式について少し話したいと思います。
私たち人間の「体」には様々な部分があります。目や耳、口や鼻、手や足などがあります。どれも生きるために大切なものですが、様々な部分の中で、最も中心的になるものは「心臓・・内臓」です。
「心臓」は「命」の象徴的な部分です。言い換えると、心臓が働けば人は生きているし、命があるということです。「教会」は、ある意味で「体」のようです。教会の中には、いろいろな物が存在するのです。様々な物が置かれているのです。
祭壇やろうそく、十字架やご像、聖水や鐘などがあります。しかし、様々な物の中で最も中心的になるのは、何よりも「聖櫃」なのです。
「聖櫃」はある意味で教会の「心臓」です。聖堂の「内臓」です。聖堂の中に安置されいる「ご聖体」が教会全体の「魂」になるものです。簡単に言うと、教会には聖櫃がなければ、建物として教会その場所には魂がない、しかも、普通の建物とあまり変わらないのです。「典礼」も同じだと思います。ミサの時にご聖体の食卓を受けなければ、典礼そのものは魂がないということです。なぜなら、ご聖体こそがわたしたちの永遠の命の糧だからです。
そう言った意味で、教会の中で「聖櫃」の存在がどれほど大切かはお分かりになるでしょう。キリストの現存や、永遠の命の糧が聖櫃の中におられることを認め、しるしとして、どこのカトリック教会にも24時間の聖櫃のランプが点いているのです。ですから教会に来るのは、日曜日のミサの時だけではなく、いつでも主と過ごしたい、一人で主と交流したいならば、キリストがここで、この聖なる神殿で、特に聖櫃の中に留まり、皆が訪問してくれるのを待っておられるのです。
ご存じのように、先月から平針教会で初金ミサ後に聖体礼拝を行いました。ご聖体の前で一緒に祈ったり、グループや個人個人でご聖体の前に祈ったり、黙想したりしました。この恵まれた時を与えられたことを改めて、聖体礼拝式の美しいことについて皆と分かち合いたいのです。
まず、聖体訪問は、「キリストの元に行く」のです。言い換えると、キリストは私たちが訪問してくれるのを待っておられるのです。しかし、聖体礼拝式は、「キリストご自身が私たちを迎えに来られて、歓迎する」のです。いつも聖櫃の中におられるのですが、聖体礼拝式の時に聖櫃を出て、わたしたちに立ち向かい、歓迎してくださるということです。
そして、もう一つの美しいところは、普通の祝福は司祭の手を通して授けられますが、イエス・キリストから直接に祝福を受けられるのが「聖体礼拝式」なのです。ですから司祭が聖体顕示台を持って十字架のしるしをするとき、実はイエス・キリストご自身が祝福をお授けになり、その時にわたしたち一人ひとりも十字架のしるしをしながら主イエスの祝福を受けます。これが聖体賛美式、聖体礼拝式の最も美しいところです。
平針教会として、毎月の初金ミサ後に、聖体礼拝式を行います。ぜひ、この特別な時間を主と共に過ごし、一緒に祈り、互いにコミュニケーションを取り、主との信頼関係を深めましょう。
平針教会だより257号 より
2011年3月11日「あの日あの時」
東日本大震災が起こってから、被害にあわれた皆さんのために何らかの形で支援や励ましをしました。その中の一つに「歌」があります。あの日からしばらくの間、テレビで「夏川りみ」さんの「あすという日が」という歌がよく聞かれました。この歌の歌詞は、とても簡単に聞こえるのですが、内容は深い意味があると思います。
人生を諦めないで、今を生きることを感謝すべきです。「生きる」ということは素晴らしい恵みです。ですから、何度倒れても、失敗しても、気持ちを切り替えて、立ち上がり、生きて行くことが大切です。「道の草のように、踏まれても、なおのびる、踏まれた後から、芽吹いている」と。
「シモン・ペトロ」の出来事を考えてみると、ペトロは最後の晩餐のすぐ後にイエス様のことを否定しました。それは本当に残念なことだと思います。今まで家族から離れて、自分と兄弟のアンデレと共に、ずっとイエス様と他の弟子と共に生活しました。「イエス?あの方は私と一切関係ない、あの人のことは全然知らない」とペトロは言いました。しかし、この弱い人間であるペトロ自身は、すぐ後に「気落ちを切り替え、自分の弱さ、自分の足りなさ、自分の人生の暗闇から立ち上がって、やり直そう」という強い努力があったと思います。その「立ち上がる、やり直す力」があったからこそ、復活した主イエスと再会することができるようになったのでしょう。
私たちの「復活」とは、遠い先に訪れる「永遠の命の復活」を準備する意味と捕えるのではなく、「現在の私の生き方への人格的なチャレンジ」ということを意味します。自分の「人生の暗闇の束縛から解放されるように、自信を持ち、立ち上がって、取り戻し、やり直す」ということです。人生の暗闇の部分とは、自分にとっての欠点、みにくさ、罪深さに対する苦しみ、などです。これらの心の重いふたから解放され、解き放つという内面的な力、これが「復活」だと思います。
ペトロは「イエス様のこと」を否定して、打ち消しました。しかし、その後に「気持ちを切り替え、自分の弱さ、自分の足りなさ、自分の人生の暗闇から立ち上がって、やり直そう」という強い努力があって、復活したイエス様と再会することができたのでしょう。私たちも、自分にとっての欠点、みにくさ、罪深さに対する苦しみ、などの心の重いふたから解放され、解き放つという気持ちを身につけていくことができるよう、そして、もし今、落ち込んでいる気持ちでいるのなら、ぜひ「夏川りみ」さんの「あすという日が」という歌の歌詞のように「道の草のように、踏まれても、なおのびる、踏まれた後から芽吹いてる」という心で、生きることができますように、お互いに祈り、願い、努力しましょう。
“主の復活 おめでとうございます”
平針教会だより256号 より
人間は社会的な生き物です。社会的な生き物として、人間は平和な生活を実現するために他の人と協力しなければならないのです。アリストテレスという哲学者はこのように社会的な生き物を解釈しました。
「社会的な生き物はZOON POLITICON」ということは、人間は社会の中で他の人と互いに生活し、相互作用するということです。そして、他の人と相互作用するために移動するということが必要になると思います。
人間は毎日移動しています。そして、移動している時に何かを残しているのです。少なくとも、自分の足跡を残します。ですから、移動することによって私たちは何かを残します。
私は9年前に宣教師として家族や国の友達を残し、日本に来ました。そして、2年間ぐらい、南山大学で日本語を勉強してから長崎の聖ルドビコ神学院に派遣されました。2013年から2017年まで仙台教区に派遣されました。そして、同年11月から平針教会に移動することになりました。私は移動で多くのものを残していることに気づいたのです。移動することによって色々なことを学ぶことができるし、無意識に何かを残しています。
3月に入りました。日本では4月の人事異動により人は移動します。私たちにはカトリック信徒として典礼があります。毎年一つの典礼から一つの典礼に移動しています。今は四旬節に入っています。そして、復活祭、待降節、降誕節と続きます。典礼によって、移動することは残すことと言われたら何かを残すのか。イエス様の教えの中で、古い人を脱ぎ捨て、新しい人となりなさいとよく耳にします。私たちは移動することによって、普通の移動あるいは一つの典礼から一つの典礼に移動することによって、色々なことを学びながら、古い自分を脱ぎ捨て、新しい人となってこれから色々なことを学んでいくことが出来ると思います。
平針教会だより255号 より
皆さん、遅くなりましたが、改めましてクリスマスのお祝いと新年のご挨拶を申し上げます。皆さんの上に、今年も神の恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。
降誕節が終わりました。そして、新しい年が始まっています。しかし、私たちには、いつも主の降誕のメッセージが大切だと思います。クリスマスを祝うことにあたって、私たちが、まず思い出すのは、神の前に身を低くして、たたずんで祈っている、女の内に祝福された「聖母マリア」の姿です。
ご自分の身に起こった偉大な神の計画を、迷いながらも祈りをもって応えた聖母マリアの姿です。聖母を思い出すことは、同時に、その体内に宿られている御子と、いつもそばで静かに見守ってくれている正しい人、ヨゼフのことです。
新年の旅を歩み続けるわたしたちに、クリスマスの本質を教えてくださるのです。
1.私たちの生活の安心と安全は、まず自分の生活の中で「祈り」「神とのつながり」を大切にすることです。ヨゼフとマリアのように、私たちも人生の迷路に迷い込んでも、大事なのは、平静に祈ることです。慌てずに、騒がずに、神に祈り、神と共に歩み、その出口を探し求めることです。
2.クリスマスの場面や出来事が可能になったのは、神と人間との協力。ヨゼフ、マリア、羊飼いたちとの協力があったからです。私たち自身、私たちの家族、教会、社会の安心と安全の鍵を握っているのは、私たち自身です。私たちには協力したい、共生したいという気持ちがあるのでしょうか。協力と共生をするためには、お互いのことを認め合い、補い合うことです。
3.クリスマスは「平和」の源である神。その神の幼子イエスの中に、私たちの間に、私たち一人ひとりの中に降誕されたのです。目に見えない神が「インマヌエル」となり、私たちと共におられることは、大きな喜びとなり「大安」になると思います。
この主の降誕のメッセージを大切にいつも心に留めていただければと思います。
新年が始まりました。新しい巡礼の旅が始まります。新年にはどんなことが起こるのか分かりませんが、分かっていることは、どこにいても、どんなことがあっても、私たちは一人ではありません。神様は私たちと共に歩んでおられます。神様は私たちの歩みをいつも見守ってくださいます。神様に助けられながら、私たちは人生の旅を歩んで行くのです。
平針教会だより254号 より
結婚生活には、お互いの努力が必要であると思います。お互いに相手を理解したり、思いやったりと、忍耐なり、寛容なり、慈愛なり、柔和、自制が必要であり、相手を受け入れる努力が必要です。しかし、心がかたくなであると、相手が自分に合わせてくれることばかり要求して、自分はわがまま好き勝手をして、自分を変える努力をしないという具合であります。
そういう人間のかたくなさ、頑固さという人間の罪があらわになるように、離婚の教えが定められていたのです。もし、人間がかたくなでなければ、罪がなければ、離婚の教えなど必要なかったと思います。心がかたくななゆえに、離婚がやむを得ないという場合も起きると思われます。
確かに、旧約聖書も新約聖書も、離婚を絶対に否定しているわけではありませんが、基本的には神は離婚を許されていないのです。神が結び合わせたものを、人は引き離してはならない、これが聖書の原則です。
「結婚、また離婚」とはこれほど重要なことなのです。結婚は本来神聖なものです。結婚も離婚も、法的には紙一枚に印鑑を押して役所に提出すれば、成立してしまう簡単なものです。しかし、結婚がこれほど重要なものであるということが分かっていないから、簡単に離婚してしまうのではないでしょうか。どうしてもしかたない理由というものもあり得るとは、思います。しかし、結婚、離婚の意味の深さを人間の基準ではなく、神の基準で理解していたなら、踏みとどまれた離婚も多かった、また多いのではないでしょうか。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。好き嫌いで一緒になったのではなく、神が二人を結び合わせてくださったと考えるべきであります。信者の夫婦には「キリスト教的信仰、愛、忍耐、犠牲心」などを持って生活すれば幸せな家庭をつくることができます。
まず「精神的な一致を考えて、コミュニケーションを取る努力をすること」。コミュニケーションは毎日の挨拶、その日にあった出来事についての会話、また、できれば率直に伝える会話などが大切です。
次は「一家団らんの食事をする」。食事は単に空腹を満たすだけではなく、新しい交わりを表すおこないです。
そして「夫、あるいは妻は、一人ひとり内面的に良い人であるように」。その良さに基づけば、さまざまな問題の解決に容易に近づくことができるでしょう。これは神様が一人ひとりに与えられたチャレンジ、理想です。
最後には「家庭の祈り」。日常生活の中で、いろいろ忙しいと思いますが、その忙しい時間の中で、家族のために神に祈ることがとても大切です。違う信仰ということもありますが、それぞれの形で神様と家族とのつながりを表現しながら、大切にしていけば、家族として幸せに過ごしていけると思います。
ここで神が結び合わせた関係は、夫婦の関係だけに留まりません。親子関係、兄弟関係、信者同士の関係、さらに私たち一人ひとりと神様との関係もイエス様において「神が結び合わせてくださったもの」です。この関係は大切にすべきものですが、私たちが自分中心に物事を考える時、この関係を破壊しようとするエネルギーが動きます。私たちの側から神様に背を向けたり、神様から隠れようとしたりする思いが起こってくるのです。しかし、イエス様はそんな私たちに対して離縁状を突き付けるようなことはなさいません。十字架上で、ご自分の命を捨てて私たちを愛してくださったイエス様は、そのようなことで、すぐに私たちを見捨てたりはしません。
十字架のイエス様によって、私たちは神様との豊かな人格的関係が与えられています。私たちがこの関係を壊そうとしても、どれだけ神様を悲しませても、神様は私たちを見捨てません。神様は命を捨てるほどの愛で私たちを愛しているからです。この愛に深く与かる時に、私たちは「神が結び合わせてくださったものです」。人はそれを離すべきではありません。
生きる教会である私たちは、この「神との絆、また人間との絆」「夫婦関係であり、兄弟関係であり、信者同士の関係であること」をキリストの愛によってお互いに結び合い、つなぎ合うことができますように。
平針教会だより252号 より
私は2010年に日本に来ました。私が子どもの頃からずっと、日本に来る前まで日本は平和、安全だと言われていましたが、最近そういうことをほとんど聞かなくなったなあ、と、ふと思いました。もちろん、この国が70年以上戦争をしていないということはありがたいことだと思います。他の国との戦争を起こさないための努力は尊いと思います。ただ国が戦争をしなければ平和だとは言えない面があります。
身近なところで、私たちの平和、安全が脅かされていると感じているのが現実ではないかと思います。犯罪に遭う人の多さ、追い詰められて自分の命を絶ってしまう人の数、そして、虐待されたり、学校で苛めに遭っている子どもたちの数を考えると、とてもこの国が平和だとは感じられないのが現在かもしれません。
今年、名古屋教区では8月6日から15日まで「平和旬間 10日間の聖体礼拝」が行われます。「24時間礼拝で、平和のために祈ろう」というテーマをもって、教区として平和のために共に祈ります。皆さんにはできる限りでの参加が呼びかけられています。
平和に関して福音書で、イエスは平和を約束します。「わたしは、平和をあなた方に残し、わたしの平和をあなた方に与える」と。私たちはミサの中で聞いている言葉ですが、イエスはただ「平和」というのではなく、「わたしの平和」と言います。イエスの「平和」とは何でしょうか。それは、「神が共にいてくださる」という平和だというしかないと思います。
私たちは毎回ミサの中で「わたしは、平和をあなた方に残し、わたしの平和をあなた方に与える」とイエスの言葉を聞きます。そして、その後平和の挨拶をします。お互いに顔を合わせて「主の平和」と言います。それは「神が共にいてくださる」という平和を意味すると思います。私と一緒に神がいてくださる。あなたと一緒に神がいてくださる。とお互いに呼びかけ合っていくことだと思います。私と共に神がいてくださり、あなたと共に神がいてくださる。そう認め合い、本当にそうなるように願う中で、本当の平和が始まっていくのだと、私たちは信頼して歩んでいくのだと思います。
ミサで平和を願い、平和の挨拶を交わしながら、私たち一人ひとりのうちにキリストの平和が実現していきますように。人と人との間に平和が実現していきますように。教会の中に平和が実現していきますように。この社会の中に、世界の中に平和が実現していきますように。心を合わせて祈りたいと思います。
平針教会だより251号 より
復活節が終わって、今は年間節に入っています。祭壇の後ろにある言葉も変わりました。そこに書かれているのは「あなた方の光を人々の前に輝かせよ」(マタイ5・16)です。
私はこの言葉を読むと、洗礼の時にもらうロウソク、またはいつも個人の祈りの時に使うロウソク、あるいはミサの時に使うロウソクを思
い出します。このいろいろな時に灯したロウソクを見るたびに、聖書にあるイエスの言葉を思
い出します。それはマタイ福音書にある「あなた方は世の光である」という言葉です。
私たちは、ロウソクがどのようなものかを知っています。ここで「ロウソク」について、三つの大切なポイントを取り上げて、お話したいと思います。
まずロウソクは暖かさを与える、ということです。イエスの弟子である私たちは家族の中で、あるいは共同体の中で、皆お互いに愛の暖かさを分かち合います。愛の暖かさがなければ、家族生活において、また共同体生活において、冷たくなり、辛くなってしまうと思います。
次にロウソクは暗闇の中で光を与える、ということです。私たちは暗闇の中で、必ず光を必要とします。生活の中で自分が持っている光、神様から頂いた愛の光を互いに照らし合うことができるようにということです。
最後にロウソクは光と暖かさを与えるために、自分を燃やさなければならない、ということです。それは「犠牲」を意味します。馬小屋でお生まれになった、真の光であるイエス・キリストは、私たちを救うために御自分の命を犠牲にしてくださったのです。キリスト者である私たち自身も、他の人々も救われるように、互いに助け合い、支え合うことが必要でしょう。
ラテン語には一つの有名な格言があります。
“Nemo dat quod non habet”
日本語に訳すと「自分が持たない物を与えることはできない」という意味です。つまり私たちは世の光として「周りを照らすために、まず自分が光を持たなければなりません」その光は、実は私たち一人ひとりに洗礼の時に授けられました。その光は今どうなっているでしょうか。どうかこのいただいた光、イエスの光、私たちの生活の中でロウソクのように、互いに照らし合い、分かち合うことができますように、祈り続けたいと思います。
平針教会だより250号 より
先週の日曜日、私たちはイエスが天の元に行かれたことをお祝いしました。そして、今日は「聖霊降臨祭」を祝います。「聖霊降臨祭」は教会の誕生日として祝っています。
「神様の恵み、また聖霊の働きによって」弟子たちがキリストの証人として宣教へと旅立っていくことになりました。
私たちは信仰の内容を理解するために一所懸命、聖書や教会要理やカテキズムを読んだり、色々な勉強会に参加したりするのですが、今までも全く理解できない場面は多くあると思います。理解すればするほど、もっと分からなくなってくるのではないでしょうか。その中の一つは「聖霊」のことです。「聖霊」はどのように存在しているのか、そして、どのように働いているのかということです。
実は「聖霊の存在」は理解するためではなく信じるためにあるのです。見るためとか触るためではなく、感じるためです。「聖霊の存在」は「空気」のようなものであると思います。「空気」そのものは見るためとか触るためではなく「感じるため」に存在するのです。「聖霊の存在」は頭によって理解するよりも、信じて、心を開き、その聖霊を受け入れることができるならば、その内に聖霊の働きが分かってくるということです。
「マリアのお告げ」を考えてみると、確かにマリア自身は「天使の挨拶」を聞いて頭で理解しようとしましたが、なかなか理解できませんでした。マリアは「この挨拶は何の意味だろうと考え込んでしまった。さらに、そのようなことがありましょうか。私は男の人を知りませんのに」と言いました。しかしマリアは「頭で理解しよう」という考えを変えて「心を開いて聖霊を受け入れよう」とした時に「天使の挨拶」の意味が分かるようになったのです。
これこそが本来の「信仰」の意味です。
聖アンセルモはこう言いました。”Credo Ut Intellegam”英語で言えば “I believe so that I may understand”「信じるならば分かってくる」
つまり「信仰そのものは理解してから信じるのではなく、まず、信じること。その信じることによって、内容が分かるようになるし、理解することができるのではないか。」ということです。
では「聖霊の働き」はどのように表現するかというと、この例えをもって考えてみましょう。
「建築現場」に行くと「大工さん」は建物の周りに張り巡らされた足場に立って作業しています。この足場は家を建てるために不可欠な存在です。しかし、家が完成してしまえば足場は解体され取り払われ、後には立派な家が残ります。
信仰の面からみれば、ある意味で私たちの命は「一つの家、建物である」と思います。そして、命を与えられた天の神様は、私たちの「大工さん」であると思います。私たち一ひとり人の家、建物という命を強く、立派に育てるために、イエス・キリストが私たちの「基礎」として建てられたのです。そしてキリストの血によって立派に育てられたこの「命の家」を生き続けるよう、またいつも神の愛によって生きるように、聖霊が支えて下さるのです。そういった意味で聖霊は「私たちの命の足場」であると私たちは信じています。
人間となられたみ言葉であるイエス様は、聖霊の支えによってマリアのご体内からお生まれになり、さらに宣教活動を始める前にヨルダン川で天から下ってきた「聖霊の支え」も現れました。しかも世に残っている教会の宣教活動がうまく生きるため、また多くの命が救われるために「聖霊の支えと導き」を贈られると約束されました。イエス様は「聖霊があなたがたと共におり、これからもあなた方の内にいる。私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」。「心理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われたのです。主キリストが約束された「命の足場である聖霊」がいつも私たちの上に注がれ、その聖霊の存在と働きを受け入れ、感じられることができますように。
私たちはキリスト者として生きていくために、弟子たちと同じように、イエスがご自分の生涯に持ち続けた平和が私たち一人ひとりの内に留まってくださるように願わなければなりません。また聖霊の息吹も私たちと共に歩んでくださるように心を開くということが大切なのではないでしょうか。そうすることによって、イエスの平和、また真の平和、聖霊の力が私たちに留まるだけではなく、私たち一人ひとりが平和をもたらす者となります。イエスが私たちに与えてくださった平和を私たちもこれから日々出会う人々に伝えていくことになります。これこそが私たちキリスト者としての使命です。この使命を実践していくことができるように、聖霊に満たされて、神の恵みを願いながら祈りましょう。
聖霊来てください
イグナシウス・クリスティアヌス・バサ神父(通称インセン神父)
平針教会だより249号 より
1.教会共同体:
「共同体」とは、「できあがったもの」ではなく、「できあがりつつあるもの」です。つまり、「教会共同体に信仰の集いとして、多くの人が集まってきたのです。カトリック教会は普遍的教会です。普遍的というのは、全ての人(神の民)のための教会です。民族や文化の違いを越えて、キリストの内に一つのファミリーとして過ごしていくという教会の本来の姿です。
普遍的な教会の姿は聖書の中に書いています。コリントの信徒への手紙-12章12節と13節に使徒パウロがこう言っています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分の者であろうと、皆一つの体となる為に、洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」と。
そう言った意味で、例えば、この教会には、国籍や文化、言葉や習慣、さらに、一人の人間として、考えや性格、趣味、価値感といういろいろな違いがあるにもかかわらず、神様が私たち一人ひとりを呼んで、ここに集めてくださったのです。神の呼びかけで、わたしたちは一つのファミリーとしたのです。しかも、キリストご自身がこの私たちの教会をデザインしてくださったと、わたしは信じています。この大切なポイントを一人の信者として忘れてはいけないと思います。ですから、私たちは色んな面で多様性を示しますが、キリストの体の健康の為に皆が絶対に必要です。
2・三位一体は共同体の土台:
主イエスは三位一体の一体性について、こうおっしゃいました。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)。「一つ」ということは同一という意味ですが、ここで言う「一つ」とは、「わたし」と「父」とがそれぞれの存在の固有性を持ちながら、なおかつ「一つである」という不思議な関係なのです。つまり、それぞれの存在や働きが違っても、思いや心は一つであることを意味します。天地万物をお造りになった御父、世の罪を取り除く御子、世の交わりを支える聖霊という異なる存在や働きにもかかわらず、皆は一つです。それが三位一体の素敵な姿であり、美しいところであると思います。ですから、教会また共同体が三位一体を土台として立てられるなら、その教会また共同体も当然美しいものになるでしょう。
まず、虹です。「虹」、英語で言えばrainbowのことをご存じでしょう。自然の出来事として虹は最も美しいものだと誰も認めていると思います。「虹」の一つの特徴は、様々な色が存在するにもかかわらず、互いに調和することで生じています。それぞれの色が混ざり合うことで、美しく見えるでしょう。
教会共同体を考えて見れば、わたしたち一人ひとりの存在はある意味で虹のようです。まず、国籍や文化、言葉や習慣、さらに、一人の人間として、性格、趣味、価値感という「虹」のように、様々な色が存在していると思います。しかし、その異なる中で、「互いに認め、理解し合って、受け入れること」ができるならば、教会の姿が美しく見られると思います。ですから、教会の中にある異なることは問題の原因になるではなく、信仰の美しさの元になるものです。
主イエスはこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)。
トマスというイエス様の12人の弟子の中の一人ですが、トマスと言うと、すぐわたしたちの頭に浮かぶのは、「主イエスの復活の神秘」を信じなかった人です。しかも、自分と立場を同じくする十人の使徒たち全員が、「私たちは主を見ました」と証言しているにもかかわらず、トマスは信じなかった。「私は、あの方の手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と。
では、ここで質問です!トマスが信じなかった理由は、何でしょうか?信仰が足りなかったから?もしくは、信仰が薄かったから?実は、そうではありません。本当の原因ではないと思います。しかも、信仰が足りなかったとか、信仰が薄かったということは原因ではなく、それは言うまでもなく結果のです。本当の原因は、「共同体から離れたからです」。聖書によると、イエスご自身が、弟子たちの所に現れた時、トマスが、あそこにいなかった。「他の弟子と一緒にいなかった」。皆と食卓を囲まなかったし、一緒に祈りもしなかったそうです。共同体の中にトマスの姿が見えなかったのです」。共同体から離れて、仲間の群れから外れてしまった上で、結果として、共同体との信頼関係を失ってしまったし、さらに、インパクトとして、イエス様への信仰も薄くなってしまっただろうと思います。
わたしたち自身も、もし教会の群れから離れると、まず、信徒同志との信頼関係をどんどん失い、インパクトとしてキリストへの信仰も薄くなってしまうということも可能なのです。家庭内の人間関係も同じだろうと思います。いつも家族と離れて、そして互いにあまりコミュニケーションや連絡をし合わなければ、どんどん気持ち的に遠く離れてしまい、それ上に、お互いの信頼関係も失ってしまうと思います。放蕩息子の物語も、だいたい同じことを語っているだろうと思います。彼の悩みや苦しみ、また絶望に巻き込まれた、という状況は、親からもらった財産や金を無駄使いになったということが原因ではなく、それはどちらかというと「結果」です。原因は「家族:父親の元から離れたからです」。喜びの源との縁を切り離したからです。
私達は一つの共同体として教会共同体のことを反省して、そして家庭内の人間関係も改めて反省しましょう。まず、教会また家庭生活の中で一人のメンバーとして、他者の存在をどれだけ意識しているのか。どれだけコミュニケーションを取っているのか?また、今まで歩んできた中で、教会であっても、家庭であっても、一つのファミリーとして、どれだけ互いに大切にし合い、赦し合い、認め合ったのか?
“主のご復活、おめでとうございます”
これからもよろしくお願いします
イグナシウス・クリスティアヌス・バサ神父(通称インセン神父)
平針教会だより248号 より
灰の水曜日から私達の四旬節が始まります。この四旬節は清い心で復活祭を迎えるための大切な準備の期間です。でも、どのように心の準備をすることができるのでしょうか。それは施し、断食、祈りによって、私達にとっては恵まれる期間になるのではないでしょうか。四旬節は「40日の期間」という意味です。40という数は、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来していて、それにならって40日の断食という習慣が生まれました。
四旬節に放蕩息子の物語をよく読まれます。この物語をよく考えてみると放蕩息子自身は、「暗闇の人生から解放したい」という気持ちは確かに強く持っていたと思います。ただ、その「気持ちを持つこと」だけで、その後に何もしなければ、立ち上がって家に戻らなければ、父の元に帰らなければ多分これほど救われなかったと思います。四旬節に当たって、自分一人一人、また家庭生活、共同体生活の中で、改めて振り返して、今まで自分の心の中に、放蕩息子のような人生があるならば、いわゆる「家族内の関係、夫婦関係であり、親子関係であり、兄弟関係であり、また共同体会員との関係」に対して、「あまりうまくいかない時もあると思います。しかも、心とのぶつかり合う」という問題もしばしばあると思います。ここで、放蕩息子の模範に習い、「回心の気持ちを持って、古い人間を脱ぎ捨て、救いの恵みの道へ向かって出発しましょう」。聖パウロがおっしゃったように、回心の気持ちによって、神に対して、また他人に対する愛がますます豊かになります。
四旬節中、私達は自分の中にある荒れ野、つまり孤独、病、不都合などの荒れ野の生活に負けないように神様の言葉に従って生きなければなりません。誰かが苦しみの中にあっても希望を持ち続けるなら、神様はその人を祝福し、神の栄光を見るでしょう。
イグナシウス・クリスティアヌス・バサ神父(通称インセン神父)
平針教会だより247号 より