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日本二十六聖人殉教者に捧げられた教会

カトリック平針教会

     Hirabari Catholic Church

 

2/14 森山神父からのメッセージ更新しました。(こちらから)

2/14 聖週間のミサ時間掲載いたしました。

12/18 インセン神父のメッセージ更新しました。(こちらから)

11月より新任神父としてイグナシウス・クリスティアヌス・バサ神父(通称インセン神父)が着任いたしました。 >>ご紹介はこちら

2/14 森山神父からのメッセージ更新しました。(詳しくはこちら)

2/14 森山神父のコラム更新しました(詳しくはこちら)

2/18 インセン神父のメッセージ更新しました(詳しくはこちら)

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聖週間のミサ時間

  • 3月25日(日)受難(枝)の主日
    9時30分 枝の行列・ミサ

  • 29日(木)聖木曜日(聖香油ミサ)
    19時00 主の晩さんのミサ

  • 30日(金)聖金曜日
    19時00分 主の受難の典礼

  • 31日(土)聖土曜日
    19時00分 復活徹夜祭

  • 4月1日(日)復活の主日
    9時30分 復活祭ミサ


新任司祭の紹介

初めまして 私はイグナシウス・クリスティアヌス・バサ(Ignatius Christianus BASA)と申します。

通常、「インセン」と呼ばれています。インドネシア出身です。

 1979年10月8日にインドネシアのフロレス島で生まれました。生まれた所も、育った所もフロレス島です。5人兄弟で、両親はまだ健在です。2009年10月18日、フロレスの神学校で神言修道会の司祭として司祭叙階されました。

 2010年に日本に来ました。最初の2年間は名古屋の南山大学で日本語を勉強しました。

 その後、2012年から2013年まで、1年間、長崎のルドビコ小神学校で指導司祭補佐として神学生と生活を共にしながら、色々なことを学ぶことが出来ました。長崎で自動車の運転免許を取りました。

 2013年から今年の7月まで岩手県の盛岡市の四ツ家教会に居住し、仙台教区の第三地区(岩手県の八つの小教区)で働かせて頂きました。そして、11月からこちらの平針教会で助任司祭として働くように任命されました。主任神父様の森山神父様をはじめ、皆様と、この教会共同体の一員として皆様に関わっていくことになりました。私自身、分からないことはまだまだいっぱいあると思いますが、主任神父の森山神父様、また皆様にいろいろ教えて頂きながら働ければ大変嬉しく思います。

 聖書の中に、イエス様がサマリア人の地域に入られた時て、一人のサマリアの女に「水を飲ませてください」と願う場面があります。これは、ある意味でイエスご自身が「サマリア人との関係を作り、また協力を願っておられること」を意味していると思います。

 これから私が「この教会共同体で奉仕する」ということは、ある意味で「皆さんの地域に、皆さんの世界、皆さんの中に」、入るということだといえます。ただ、私自身、自分の力だけで奉仕するのは、足りないと思います。ですから、皆さんの「支えとご協力」という「行きた水」をいつでも飲ませていただければ、大変ありがたく思います。どうか、よろしくお願いいたします。

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森山神父から一言

「インセン神父様 一緒に働きましょう。よろしく」

 仙台教区で共同司牧をしながら走り回り活動していた神父様が、一カ所に留まり宣教活動するのは初めてでしょうが、ここでも精力的に働いてくれると思います。日本という社会の中で福音がどの様に「生きられるか」を信徒の皆さんと共に模索することを期待したいと思います。

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(11月6日、共同司式でのデビュー)


  プロフィールと歴史

カトリック平針教会の高い鐘楼

「カトリック平針教会」は、日本26聖人殉教者記念教会として 1979年に創設されました。

京都から長崎までの苦難の道のりを歩み殉職された「日本二十六聖人殉教者」に捧げられた教会です。

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  初めての教会

十字架のイエス様

主イエス・キリストの教えに興味 がある。 教会に行ったことはないけれども、一度行ってみたい。

知り合いがいなくて行きづらい。 そのような方へのご案内です。

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  十字架の道行きの祈り

秋山康恵氏、弟子の足を洗うイエスのレリーフ

聖堂内に秋山康恵氏による、イエス・キリストが 十字架を担って歩んだ 受難の道のりを 描いたレリーフが掲げられてます。ひとつひとつの場面を心に留めて祈り、黙想します。

詳しくはクリック

築35年経った私たちの教会の建物のリニューアル工事を行いました。

「錆びた部分」「劣化した部分」「タイルの剥離」「汚れ」「雨漏り防水」など工事でした。

 今後も末永く私たちの「故郷の教会」として存続していけるようにご協力をお願いします。

 目標金額は3年間で、リニューアル費用と同額の1500万円にしたいと思います。

  • 1家族、お一人様の献金額は特に定めておりません
  • 1口1,000円を基準に「毎月」でも、「まとめて」でも結構です。
  • 専用の封筒か振込用紙を利用して、献金くださいますよう、お願い致します。
  • 郵便振替口座番号  00860-1-105898    加入者名 カトリック平針教会
教会リニューアル工事献金のお願い

森山神父からのメッセージ

 また時が巡ってきました。この時を感じさせる時期が年末年始です。この時期に日本各地でも地方においては伝統的な風習が行われるようです。こんな時は生活の中の歴史と風習を感じさせます。

 教会の暦は「救い主を待つ」をテーマにした「待降節」から始まります。この教会の暦も、長い教会の信仰の歴史の中で、一年を基準にして信仰を具体的に表現していると言うことが出来ると思います。

 今年の教会の暦は12月3日の待降節第一の主日から始まりました。今年この日には、一年以上も日曜日のミサに参加した方の洗礼式と緊急に洗礼を必要とする人の洗礼式、そして改宗式(カトリックの共同体に受け入れる式)が行われました。皆さんは長年、カトリックの信仰を求めた方々でした。共に救いを求める歩みを始めました。

 この季節は毎年同じように巡ってくるような気がしますが、私たちの社会と生きている環境は昨年とは確実に違ってきています。この時代の中で、どのような「救い」を求めるか、一人一人に課せられた課題です。しかし、最近困ったことに、大なり小なり、「救い主になりたい人」が群雄割拠している様相を呈していることです。国の指導者、経済界の人たちの「将来への約束」は決して真の救いへの道ではないにもかかわらず、思い込まされていることです。

 この一年で特に思い出に残ったことは、亡くなられた方を見送ったときに、「救いは神から来る」と感じる出来事に出会ったことでした。そこで神様は「永遠の命の大切さ」(救い)をどの様な機会に示されるか分からないということを実感しました。亡くなられた方はそれぞれに、若いときに「キリストの教え」や「キリストの姿」に接し、それをずっと気にしながら生活をしてこられたようでした。そして自分の命が、生涯が終わるという時期に、洗礼を求め、教会での葬儀を期待しながら最期を迎えられたのでした。最期の場面での短い出会いでしたが、不肖カトリック司祭としての私に「永遠の命の保障」を求めながら最期を迎えられたことは司祭冥利に尽きると思いました。

 時の変わり目の中で永遠なるものを忘れないようにしましょう。

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「ピラトの裁きの場に立つイエス」

カトリック平針教会聖堂内の十字架の道行き

文責 森山 勝文

平針教会だより247号 より


森山神父のコラム

 一年前に司教団は「いのちのまなざし」という本を出し、【すべての人が与えられたいのちを十全に生きることができるように】と呼びかけた。そこには「いのち」「成人・結婚」「老いを生きる」「生と死の尊厳」「いのちを脅かすもの」など、いま日本で考えなければならないテーマが取り扱つかわれている。しかし、あまり話題にならなくなったがなぜだろう。

 それはさておき、「いのち」という言葉は老いも若きも「生きている」状態を示すように思う。昨今、生きている「いのち」の尊さが叫ばれている。人は生まれたときから「いのち」を得て、成長していくが、病気になることもある。また能力的に衰えたり、精神的にも変化がある。知的に衰えたり、また元気になって生きている意欲に燃えたり、などなど生きている間に「いのち」はいろいろと変化しながら生きている。どのような状況になっても、「生きている」、「いのち」が大切という感覚がある。しかし、それは「死」に対峙する概念として無意識のうちに受け止められているように思う。

 絶体に避けられない「死」、すべてを終える「死」に対峙するにはどんな形であれ、「生きている」「いのちの大切さ」「生きていることの深刻さ」が意識されているように思う。しかし最後、いのちは「死」という現実で終わるのである。

 しかし、「死」に対峙する「いのち」という概念は、「永遠なる存在としての人間の姿」を描くには足りないと思われる。生物学的には両親から生まれ、そして「無から生まれた人間」(この概念も信仰の基づく概念)は、「生まれたときから永遠なる存在」として存在し始めているということは「信仰の基づく信念」ではあるが、この視点から「人間」(いのち)を見るときが来ているように思う。

 高齢化社会になり、「元気に生きている」という時間より、「無為に生きている」と思われる現実の姿に接するときに、何のために生きているか(存在しているか)と率直に感じる。この感覚は「いのちの大切さ」よりも、「存在の尊さ」に視点を変える必要があることを示しているように思う。

 ときに「何のために生きているか」「生きている意味は何だ」と不遇の状況に置かれたときに人は叫ぶ。確かに何かのために生き、意味を持って生きることは「意味がある」だろう。しかし、それは「いのち」を満喫できない、人生を満喫できない人の叫びに聞こえる。

 自分も高齢になり、仕事柄、高齢者や病人に関わることが多くなった。「昔はあんなだったのに」と現状と比べてその変化に戸惑う。しかしもう一方で、「人間の存在の尊さ」「人間の存在を永遠なるもの」として見れば、現状を「天国への一里塚」として愛おしく見ることもできる。

文責 森山 勝文

平針教会だより247号 より


インセン神父からのメッセージ

 灰の水曜日から私達の四旬節が始まります。この四旬節は清い心で復活祭を迎えるための大切な準備の期間です。でも、どのように心の準備をすることができるのでしょうか。それは施し、断食、祈りによって、私達にとっては恵まれる期間になるのではないでしょうか。四旬節は「40日の期間」という意味です。40という数は、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来していて、それにならって40日の断食という習慣が生まれました。

  四旬節に放蕩息子の物語をよく読まれます。この物語をよく考えてみると放蕩息子自身は、「暗闇の人生から解放したい」という気持ちは確かに強く持っていたと思います。ただ、その「気持ちを持つこと」だけで、その後に何もしなければ、立ち上がって家に戻らなければ、父の元に帰らなければ多分これほど救われなかったと思います。四旬節に当たって、自分一人一人、また家庭生活、共同体生活の中で、改めて振り返して、今まで自分の心の中に、放蕩息子のような人生があるならば、いわゆる「家族内の関係、夫婦関係であり、親子関係であり、兄弟関係であり、また共同体会員との関係」に対して、「あまりうまくいかない時もあると思います。しかも、心とのぶつかり合う」という問題もしばしばあると思います。ここで、放蕩息子の模範に習い、「回心の気持ちを持って、古い人間を脱ぎ捨て、救いの恵みの道へ向かって出発しましょう」。聖パウロがおっしゃったように、回心の気持ちによって、神に対して、また他人に対する愛がますます豊かになります。

  四旬節中、私達は自分の中にある荒れ野、つまり孤独、病、不都合などの荒れ野の生活に負けないように神様の言葉に従って生きなければなりません。誰かが苦しみの中にあっても希望を持ち続けるなら、神様はその人を祝福し、神の栄光を見るでしょう。

イグナシウス・クリスティアヌス・バサ神父(通称インセン神父)

平針教会だより247号 より