【神父のやぶにらみ】 ・最終稿
吉祥寺教会にいるときにお世話になった大学病院に、その後20年近く通っている。病名は生活習慣病とかで日常生活に特に障害はない。東京まで車で出かける。名古屋に来る前、軽井沢に一年いた時も通った。この遠距離をどれくらい走っただろうか。だた、診察のためだけでなく、そのついでに、お世話になった方を訪れたり、高齢者を訪問したり、墓参に行ったり、その道中を無駄にしないようにしている。
高速を走りながら考え事をする。風景は変わる、道路も変わる。走っている車も変わる。変わらないのは、住んでいる人、人が住んでいることは変わらない。山の中、谷間、海沿いで川沿いに家がある。密集したところもある。風景の中に、人間の生活の痕跡を感じながら、あそこにも、ここにも人の歴史があり、喜怒哀楽があったのだろう、また村々、町々にはそれぞれ歴史があり、どの様に生きていたのだろう。そこで生まれ、そこで成長し、家庭を持ち、死んでいく姿が目に浮かぶ。どこにもそこで生きた人の大切な歴史があり人が生きた証がある。
旧東名高速道路は町々をつなぐように走っているが、新東名高速道路は、すべてを貫き、東京に向かう。山があれば、トンネルを掘り、山はを削られている。谷があれば、埋め立てたり、橋をかけたり、ひたすら水平に、まっすぐに進む。その道中には歴史はない。日本の土木技術の高さを誇るように、便利さに貢献している。
「どこまで便利さと利益を求めるか」。日本の社会の根本的な問題を暗示している。
新東名高速道路は輸送の大動脈として、大型のトラックがうなり声をあげて走る。広いサービスエリアは大型のトラックで埋め尽くされている。長年走っていると、その走り具合で、世の中の景気を感じることがある。
文責 森山 勝文
平針教会だより248号 より
森山神父のコラム
一年前に司教団は「いのちのまなざし」という本を出し、【すべての人が与えられたいのちを十全に生きることができるように】と呼びかけた。そこには「いのち」「成人・結婚」「老いを生きる」「生と死の尊厳」「いのちを脅かすもの」など、いま日本で考えなければならないテーマが取り扱つかわれている。しかし、あまり話題にならなくなったがなぜだろう。
それはさておき、「いのち」という言葉は老いも若きも「生きている」状態を示すように思う。昨今、生きている「いのち」の尊さが叫ばれている。人は生まれたときから「いのち」を得て、成長していくが、病気になることもある。また能力的に衰えたり、精神的にも変化がある。知的に衰えたり、また元気になって生きている意欲に燃えたり、などなど生きている間に「いのち」はいろいろと変化しながら生きている。どのような状況になっても、「生きている」、「いのち」が大切という感覚がある。しかし、それは「死」に対峙する概念として無意識のうちに受け止められているように思う。
絶体に避けられない「死」、すべてを終える「死」に対峙するにはどんな形であれ、「生きている」「いのちの大切さ」「生きていることの深刻さ」が意識されているように思う。しかし最後、いのちは「死」という現実で終わるのである。
しかし、「死」に対峙する「いのち」という概念は、「永遠なる存在としての人間の姿」を描くには足りないと思われる。生物学的には両親から生まれ、そして「無から生まれた人間」(この概念も信仰の基づく概念)は、「生まれたときから永遠なる存在」として存在し始めているということは「信仰の基づく信念」ではあるが、この視点から「人間」(いのち)を見るときが来ているように思う。
高齢化社会になり、「元気に生きている」という時間より、「無為に生きている」と思われる現実の姿に接するときに、何のために生きているか(存在しているか)と率直に感じる。この感覚は「いのちの大切さ」よりも、「存在の尊さ」に視点を変える必要があることを示しているように思う。
ときに「何のために生きているか」「生きている意味は何だ」と不遇の状況に置かれたときに人は叫ぶ。確かに何かのために生き、意味を持って生きることは「意味がある」だろう。しかし、それは「いのち」を満喫できない、人生を満喫できない人の叫びに聞こえる。
自分も高齢になり、仕事柄、高齢者や病人に関わることが多くなった。「昔はあんなだったのに」と現状と比べてその変化に戸惑う。しかしもう一方で、「人間の存在の尊さ」「人間の存在を永遠なるもの」として見れば、現状を「天国への一里塚」として愛おしく見ることもできる。
文責 森山 勝文
平針教会だより247号 より
八月は人の愚かさの一区切り。
人は、またこの愚かさを確認する。
八月は愚かさの始まりでもある。
被害者だけがその愚かさを知っている。
なぜなら、理不尽な悲しみの中に、「回心」を知っているから。
それを長崎浦上のカトリック信徒は、「摂理」として、受け止た。
為政者や加害者はこの愚かさを知らない。
なぜなら、回心がないから。
「小さなもの」にしか示されない真理の理不尽を信仰者は生きるのか。
私は原爆の「ピカドン」は知らない。
しかし「ピカドン」が過ぎた後がどのような状態かは知っている。
それには理不尽な非情な現実があった。
ピカドンの四年後、「巡幸」とやらで、偉い人が来た。
列車が通り過ぎる線路わきに並ばされた。
ピカドンの後、長崎がどんなになったかを見に来たのだろう。
回心もなく。
ぼろぼろの服を着た小汚い子供たちが、何にもわからず、冷ややかな目で見ていた(ように思う)。
ピカドンの六年後、またある行列に参加した。
ピカドンの後、回心して被爆地に這いつくばって治療にあたった医師の葬儀だった。
彼自身がピカドンを生き延びた人だったが、ピカドンの影響で、ボロボロになって死んでいった。
相変わらず、ぼろぼろの服を着た子供たちが葬列を愛情こめて見送った。
そこには、悲しみと感謝がみなぎっていた(ように思う)。
そこには命を賭しても、守るべきものを示した者の死であった。
しかし、そこには死でなく、命があった。
誰でも望む平和は条約の締結では来ない。
平和は「回心」のうちにある。
なぜなら条約を守り続けには「回心がなければ」、すぐに反故にされるから。
世界を動かすほどの「回心」の場に立つことはない。
しかし、個人としてはせめて回心しながら、永遠の中に生きて行こうと思う。
そこには、希望をもってこの世に生まれ、非業の内に死んでいった人が「人間の存在」の意義を示してくれるから。
平針教会だより244号 より
教会の中でも、年度変わりになり、いろいろ移動が行われる。最近は9月の移動もありそうで、聞けば、外国の就学年度との関係で、移動の変わりが9月とのこと。学校などに勤務する会員は新年度に向けての移動になるが、小教区関係の移動は復活祭を終えて、一、二週間のうちに行われる習慣がある。
教会関係の移動はどのようなタイミングで行われるか。若い司祭は2、3年で、中堅どころの司祭は5、6年で、多少年齢を重ねると10年前後で、転勤があるというのが一般的のようだが、原則はない。長さは任命権のある上司にあたる者の考え方と、本人の性格、仕事の仕方によるような気がする。
ある地方で働く司祭の中に、同じ場所に45年以上いたという宣教師がいた。その長さに異口同音に「長すぎる」と批判が出たが、そうだろうか。幼稚園も運営していた彼は、多くの園児を育て、その地方の名士にもなり、教会外の人たちからも慕われていた。そして教会堂も司祭館も幼稚園もその司祭の手が入り、大事に使われ、その街にすっかり馴染んでいる様子がうかがえた。これが、3,4年で司祭が代わっていたらどのような教会の姿になっただろうか。地域の人々に安心感を与える教会の姿は、今の日本では必要な配慮ではないだろうか。
平針教会だより241号 より
情報や通信機器が発達し、いろいろ便利なものが紹介される。身近にあり利用するが、フト、「本当に、これって必要ですか」「あって便利でいいが、なくてはならないものですか」「あってもいいけど、人を豊かにしますか」と言いたくなることがある。
「無い物ねだり」という本能が人間にはあり、これには二面がある。生活に必要なものの不足から来る欲望、しかし、さらに多くのものを求める欲望もある。この二つの欲望の中で人間は翻弄される。 さらに人間には「個人性と社会性」を備えている。個人としてはそれぞれの理想の追求があるが、それは無制限のものではなく限界がある。さらに人間には社会性という部分もある。
人間の歴史の中で、小さな社会の中ではこの二つは極端に走ることなく進んできたが、「世界は一つ」「人類は一つ」という時代になって「個人」と「社会性」の調和は難しくなってきている。今まさに「個人として」の行動・価値観・有り様についての視点と「社会の構成員として」の行動・価値観・有り様が問われています。
一人一人はいい人なのに、集団になると別の価値観がみられる。世界が混乱するのはこの辺に理由があるような気がする。
平針教会だより240号 より
主任司祭 森山勝文
明けましておめでとうございます。
私は小教区で仕事をするときできれば正月には門松を正月飾りとして設置することにしている。
「門松は年神様を迎える異教の風習ではないですか」と尋ねられる。確かに起源はそうかもしれない。しかし今や「宗教信仰行事」というよりも新年を迎える「日本の文化」の風習となっていないかと思う。
クリスマスツリーなども元を質せば異教の習慣ではなかったか。それが今や聖堂の中に飾られる。今や世間でも季節の飾りとして取り入れられている。それは精神文化の表現ではないかと思う。
子供の頃(長崎の浦上教会ですが)迫害を耐えた信徒がクリスマスと正月をこのような飾りで時の流れの中で神の恵みを感じたことが原点にある。(森山)
壮年会のよる門松作り風景
門松に必要な材料の切り出しから入手まで自前でおこなった。
年ごとに立派になる。
平針教会だより239号 より
最近、高齢者の自動車事故が多く報道される。しばらく前までは、医療事故や福祉施設での事件が多く報道されたようだが、今はなくなったのだろうか。報道が最近少なくなった。
高速道路をよく走る私にとっては、高速道路での逆走が気になり、高速道路でのパーキング利用の時に、観察することが多くなった。
そこで気がついたのだが、最近の高速道路のパーキングはやたら広くなり、トイレがきれいに広くなり、気持ち良くなった。しかし、どちらも出口を迷うことが多い。 以前パーキングは、あまり広くないので、駐車した方向にでることが簡単だったが、最近は駐車場がやたらに広く、駐車の向きがいろいろなので、駐車の向きによっては出る方向がわからなくなる。
まして、以前は「本線」という表示が大きく地面に書かれ、看板もどこからでも見えるところにあったが、今では、消えかかったり、小さかったり、トラックやバスの陰になったり本線を探すのに苦労する。
判断が鈍って逆走するのは問題外だが、判断が鈍りそうな時になったら、運転しなくてもいい社会にならないものだろうかと思う。自動車が「自動」になり、飛行機のような電車(リニアモーターカー)が走ったところで、社会に、人にどれだけ優しいだろうか。(もりやま)
平針教会だより238号 より
出生前の性別告知
夏は何かと開放的になる。今年私の関わる聖霊病院でこれまで明らかにしなかった「出生前の性別告知」を、希望者には告知することになり、診断技術と時代流れの中での解禁となりました。
以前、胎児に対しての扱いが産み分けの判断になったりする風潮の中で、禁止されていたのですが、今では「神から与えられた命の絶対的な尊厳と尊重を意識し、親になることに対して覚悟を持つこと」が強調される時代になったことから判断されました。
「子育て」よりも「働く」ことが優先される風潮の中で、命が軽んじられています。また、「役に立つか立たない」で、人間の存在が計られる風潮も蔓延してきています。また、「主義主張に合うか合わない」で人の命が見られるようになってしまっています。
「人間の生命をなんと思っているのか」「人間の存在をなんと心得ているのか」と言いたくなる時代の中で、「生命の始まり」から「尊重と尊厳」を意識し、意識されることは、緊急の課題だと思う。
親になる者も社会も生命について、いつも最大の課題として受け止めていかなければ、今日の諸問題は解決しないと思う。「生命が第一」とは言うが、関わり方は「第二以下」になっている。「性別告知」が「命の尊重と関わりの深い自覚につながる」ことを、心から願う。(森山)
平針教会だより 237号より
災害の原因は?
夏は何かと開放的になる。今年は、リオ・オリンピックもあり、世界が一つになった瞬間があった気がするが、その合間で、事件や事故が報道されていた。
自然災害で被災する人もいるかと思えば、人工的災害で被災する人もおり、さらに政治紛争、経済紛争の中で被災する人もいる。その中でも非情にも個人的な理由と原因で被害に遭う人もいる。被災者の姿が報道され、同情され、共感され、支援が呼びかけられる。
自然災害と人工災害への対応は根本的に違うのではないか思う。人工災害でも、人工的な構築物の崩壊の災害と政治や経済の紛争に巻き込まれた災害(被災)は根本的に違うのではないか。空爆の被災、テロによる被災、通り魔的な事件は、まさに「人工災害の極み」のような気がする。これはまさに「人間の力と決意」で何とかできるはずではないかと思うが、そんなに甘くはないと訳知り顔の大人は言う。
このたび翻訳された教皇の回勅「ラウダート・シ」(ともに暮らす家を大切に)は、地球規模の問題点とその解決の方向を提言している。信仰者としての視点で考える参考になる。教理の解説書ではなく、地球規模の問題を考える参考になるだろう。「結局は人間の問題」という普遍の課題である気がする。
平針教会だより 236号より
自然の恵み
先日の新聞の投稿欄に「樫の木の手紙 伐採を取りやめ」という文章が掲載されていました。持ち主は、巨木になった樫の木が、道路や近隣の畑、隣家に落ち葉を落とし迷惑をかけるので、切り倒すしるしのテープを貼ったそうです。そしたら、そのしるしに手紙が挟めてあり、「散歩の時、この巨木に見て、小鳥や緑の葉を楽しませて頂きました。」という感謝の内容が綴られていたそうです。この手紙を見て、持ち主は伐採を辞め、迷惑をかけないように剪定して残すことにしたということです。
この投稿を見て、昨年、教会の敷地にある桜の木を剪定したことを思い出しました。春になると、敷地の角にある桜の木は、道路まで枝を伸ばし、ピンクの花を咲かせ、通りをゆく人の目を楽しませ、写真を撮っていく姿が見られました。また近隣の老人ホームの人も車椅子で散歩の途中、満開の桜を楽しんでおられました。
それが剪定する羽目になったのは、伸びた桜の枝が電線に懸かるようになり、切断の恐れが出て来たからです。それで泣く泣く剪定しました。今年の桜はどうなるか見ていましたが、残った枝や幹から例年以上に桜の花が芽を出しました。しかし剪定された分だけ「小振りになった」と言えるかも知れません。その分、太い幹の部分から直接花が出てきました。昨年まで道行く人が桜を楽しんだという様子は残念ながら見られませんでしたが、朝の散歩中の男性が写真を撮っていました。「剪定したために、小さくなってしまいました。昨年は花がもっと広がっていたのですけど」と言ったら、「花びらが密集していていいですよ」といって写真を撮り、楽しんで帰られました。その後四日ばかり経って、またその方が来られ、「葉桜」状態の桜を見ながら、「これがいいですね。私はこれが好きです」といって、写真を撮られました。確かに大きく広がる桜もいいですが、小さく密集して、「胴吹き桜」も美しくもあります。
教会の桜の木はおそらく、教会創設の頃に記念に植えられた桜かも知れません。
しかし三〇年以上も経ち、大きくなり、道行く人や教会に来る人に時々に楽しみを提供してくれます。 しかし、電線という人工物を邪魔し、人間の生活の邪魔になると言うことから、切る羽目になりました。自然は小さくとも神の恵みを示し、人間の生活を豊かにしてくれることを忘れてはならないと気づかせてくれます。
大震災の中で
また大震災で日本中が揺れ動いている。地震列島と言われながらも、大自然の動きの中で人間の生活が営まれていることを忘れそうな人間に対して警告のようにも見える。
ルカ福音に次のような記述がある。
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人はエルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
ここでは人工災害と自然災害についての触れているように思います。そして結論として「悔い改めなければ、皆滅びる」と警告しています。ここで「悔い改める」「滅びる」とはどのようなことを言っているのでしょうか。それは自然も人間も「神の秩序の中で生きること」を意識し、優先すべきことを言っていないだろうか。どんな災害があろうとも人間の存在意義を忘れない行動を心したいものです。
平針だより234号より
遺構・過去から何を学ぶか
東日本大震災から5年たち、津波の後の遺構をいよいよどうするかが問われている。陸に押し上げられた船や津波で壊れた建物など、いろいろ複雑な思いが語られる。
これを考えるときに、広島の原爆ドームのことが引き合いに出される。残すことの意義についての参考になるのだろう。しかし私には広島の原爆ドームの遺構がでるたびに、同じ原爆で廃墟となった長崎浦上の教会の姿が想い出される。浦上の聖堂の廃墟は、片付けられるまで、その建物の間で走り回り、小学生の時を過ごし、自分の生き方を決した場所でもある。浦上の聖堂の廃墟は、戦後十三年ぐらいたって、すべて取り壊され、新しい聖堂が建てられた。それは内も外も灰色の殺風景な建物であったが、ヨハネ・パウロ二世の長崎訪問を機に改装され、今の姿になった。どのような策略で聖堂が廃虚が取り壊されたかは知らない。しかし、今残っていれば、広島原爆ドーム以上に、戦争の愚かさと原爆の悲惨さ伝えることができたかと思う。
しかし、取り除かれた廃虚の上に立った浦上の大聖堂は、いまは新しい聖堂として、地域と信徒によって、何が大切かを示す重要な建物となっていると思う。
同じ遺構であっても、津波で破壊された遺構と原爆で破壊された遺構は、根本的に見る目が違っていなければならないと思う。 津波で破壊された遺構は、自然への敬意を、自然との調和を思い出させる。そしてその自然の力の中の人間を思い出す。それはその中に生きている人間社会のあるべき姿を示していると思う。
一方で、広島の原爆ドームは「人間の罪深さ」を示し、放射能の脅威を示している。それは正に人間の仕業であり、人間が人工的にもたらした悲劇である。現在、原発事故の悲劇を起こさないために安全な、地震にも対応できる地盤に作ればよいという判断で再稼働が議論されているが、原爆の放射能は戦闘員だけでなく、自然を汚染し、人間の手に負えないほど長く人体に影響を与えている。それでも「便利さを求め」「経済成長を求めますか」と問われる。
「過去の出来事は、今どのように想い出されるかによって意味のあるものとなる」と思われる。自然に破壊された遺構も「広島ドーム」のような人工的な悲劇の遺構も「過去を学ぶ」ことが出来る。
「浦上の教会」は遺構を取り壊し、その場所の上に「多大な犠牲」を払って「新しい教会」を作ることで「人間の過去から何を学ぶべきか」を教えているように思う。
どちらにしても「過去の出来事から何を学ぶか」が問われる。
【原爆後の浦上教会の遺構】
鐘塔の鐘は瓦礫の中から掘り出され、原爆後の浦上で平和の鐘として鳴り響いた。私はこの風景の中で小学生時代を過ごし、毎日ミサに参加した。この風景は今はない。しかし私の中にはこの風景をもたらした「状況」が、今でも人生を考えさせている。(森山)
平針だより233号より
高山右近列福の意味するもの
彼は、日本の歴史の中で、16,17世紀は戦国時代の最中で、武将でありながらキリストの考えを受け入れ、当時の武将たちが持っていた価値観を捨て、信仰に基づく生き方を貫いた人物であった。時の価値観に逆らい福音を生きると言うことは、何時の時代でも、世界のどの場所でも大変な勇気が求められることだと思う。いつの時代でも時の風潮を見きわめ、どのように見るか。キリスト者は問われている。
表面的な風潮でなく、今の風潮が生まれている根本に触れ、気がつくことが大切だ。 表面的な現象にとらわれ、単純な理屈で理論武装した気分になり、子供のような屁理屈で自己主張する場面にはいささかへきへきしている。これは教会の中でもいえることのようだ。「いいことしましょう」「福音を生きましょう」「愛を実行しましょう」「困った人を助けましょう」などなど、誰も否定できないことを列挙して、「信仰を生きている」という主張は今の日本では、全く不十分である。これでもって社会に預言者としての役割を果たせるわけではない。
もっと根本的なことに気がつくこと、「罪人であること」「神に愛されていること」に基づき日常において行動し判断するように促すことが教会の役割ではないかと思う。
平針だより232号より
人間性が問われる 2015/9
またぞろ、原発再稼働が動き始めた。辺野古の埋め立ても始まった。
この二つは、同じ ような「支配者の動き」に見える。また国民が何を考え、政治が何を選択するかの試金石 に見える。
原発の再稼働は、先の原発事故の処理は全くできていないにもかかわらず、いいところ 「解決の計画ができた」というレベルで、「解決できたよう」に錯覚させ、稼働を始める 理由にしている。
一、二年では何ともならない、数十年単位、百年単位で見るべきことを いかにも解決したように弁明する。原発再稼働については、経済効果と温暖化が主張される。正常に動く限りその主張は正しいかもしれない。しかし、事故によって生じた経済の 損失は計算されない。人間は便利さだけを求めるわけにはいかないことに気がつかない。 いや気がついたら、「仕事がなくなる」ので気がつきたくないのだ。「臭いものには蓋」 という陳腐な感覚でいるようだ。
辺野古の埋め立ても、どうせ先のことと何十年前に決めたことをそのまま実行しようと している。そして「危険な基地の移動のためにはここしかない」と主張する。住民の率直 な反対にもかかわらず、ここは「お国のため」と言ってごり押しする。「国は国民のため にあるのであって、国民は国のためにあるのではない」という当たり前のことが通らない。
そして、こちらの認識が間違っているのかもしれないと思わせる。
しかし、信仰上の迫害 を受けた者の血が流れている私には、力ある者が自分の名誉のために支配し、多くの人を 虫けらのように扱った事実を想い出させる。
便利さを求め、権力者におもねる国民はそれ だけの意味しかないのかもしれない。 「爆買い」が話題になっている。経済効果があると関係者は喜ぶ。しかし、そうだろう か。「それって、何か変」と思いながらも、売れるからいいかと関係者は喜ぶ。わざわざ 海外旅行までして買う品物か?と内心、「何か変」と思っている。
と思っていたら、日本 でもこの数年「ハロ ーウィン」で馬鹿騒ぎが報道される。「ハローウィンは信心業の一 つ」などと野暮なことは言いたくないが、なぜそれほどまでにはしゃぐのか、分けがわか らない。
「ちんどん屋さん」のコンクールがあるそうだが、いっそのこと「仮装大会」と 銘打ってはしゃぎ回ればと言いたい。ブラジルにカーニバルがあるように。
人間がだんだん薄っぺらになってきた。 自己主張だけで、相手の思考を認めない人間は、 近くでは「いじめ」や「虐待」などをおこない、「強行採決」もいとわない。遠くはテロ や暴動を楽しんでいるように見える。このような思考の人間に「真・善・美」などいらな い。ましてや対話も赦しもない。自己主張だけである。彼らには「物質的豊かさ」さえあ ればいいのだろう。真理を求めなければ生きる意味を見いだせない人間が路頭に迷う姿は 哀れ。 (ルカ)
平針だより230号より
過去の「何を」忘れないのか2015/3
戦後七〇年を迎え、先の戦争の悲惨な体験をした人たちが、高齢になり、過去を知るものがいなくなって来ている。
こんな中で、「悲惨な体験を語り継ごう」という動きが盛んになった。それは戦争だけでなく、最近の大震災の出来事についても、体験経験を忘れないようにしようという取り組みも盛んである。
しかし同じ「忘れないようにしよう」も、大震災と戦争とでは、根本的に忘れてはいけないことが違うように思う。大震災は「自然の力」に対してであるが、戦争に関しては、「戦争をもたらした風潮、考え方」を忘れないことではないか。だれも初めから「戦争の悲惨さ」を目指して取り組んだのではないだろう。しかし「自国のため」「国民のため」「自国の領土のため」に取り組んだ「思想・思考方法」が、結果は「多くの悲劇」を産むことになった。
国民は過去の「何を」忘れてはいけないか、を考えなければならない。残酷な悲劇悲惨だけを思い出しても「過去を自分のもの」には出来ない。それらを生み出した「人間の思考方法」を検証せず、耳に心地よい「はやり言葉」に惑わされれば、また哀しい悲劇は起こる。
悲惨さを見るだけでなく、悲惨さをもたらした人間の「弱さ、罪深さ、不完全さ」を、過去から学ぶべきではないか。(ルカ)
平針だより225号より
言葉遊び 2015/6
新たな安全保障関連法案が衆議院特別委員会で審議されていた。全部を正確に聞いたわけではないが、聞く度に新しい言葉が出てくる。何のことだか分からなくなる。
重要影響事態、存立危機事態、集団自衛権など提案する側は自分の主張を通すために、新しい言葉を発明し、説明する。聞く側は何のことか分からず、細かく尋ねるが、返答する方もだんだん窮することになり、また新しい言葉を発明する、最近の政治家の発言はそんな気がする。
言葉遊びに興じながら、人民を、国民を、人々を窮地に陥れ、悲劇に追いやったのは歴史の中で学んだはずではなかったか。
七〇年たち、平和ボケと言われる状況になり、過去の経験から学ぶこともなく、「我が国」「国を守る」「我が国の安全」などと言われ、「攻めてこられたら、無抵抗でいるわけにはいかない」という理屈で「武器を用意する」を正当化し、「平和憲法では国は守れない」「押しつけられた憲法」という理由で憲法改正をまことしやかに主張する。
「我が国を守る」は政治家の言葉で、「守りながら苦しみと死を味わうのは庶民」という構造は変わらない。「平和のために命をかける」ことこそ「我が国」を守るという発想は国民にも政治家にもないらしい。 (ルカ)
平針だより227号より
過去から何を学ぶか 2016/3
今年はいろいろな記念の年となっています。
戦後70年という一般的なこともありますが、国際連合が結成されて70年だそうだ。良くも悪くも世界が「一つの物差し」で見ようというのは大切なことではないだろうか。
教会にとっては信徒発見150周年、第二バチカン公会議が終わって50年、高山右近没400年となって、それぞれ祈念行事が行われるようです。
へそ曲がりの私は、これらの記念で何を学ぶかと言うことで考え始めました。教会の行事に関しては、信徒発見150周年から何を学ぶか。ただ強い信仰、信仰を生きる者の模範として「崇める」事が多いようで、「彼らに学ぼう」がテーマになりそうです。そして強い信仰を持とうとも言われる。それだけだろうか。
殉教者や隠れて信仰を生きた者は、人間にとって何が必要かを命を賭けて証言したと思いますし、これは信者に対してだけでなく、今の世相の消費主義、技術主義、経済優先主義の発想に対しての挑戦者ではないかと言うことです。
誰かが勝手に誤用している「積極的平和主義者」の体現者は正に殉教者ではなかったか。
マタイ5章の真福八端は「物質主義に陥った今の世界に対する」警告だと思います。それは負け惜しみではなく、今日の世相(経済優先)に対して、その行く末の「哀れさ」に対する慰めのように見える。 マタイ福音書五章三節から 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(物の豊かさを求める姿勢に対して) 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。(豊かさの中で悲しまなければならない人々にたいして) わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。(信仰の視点で生きることの難しさの中で) 殉教者が残した「信仰の大切さ」「信教の自由」、悲惨な戦争を体験してやっと得た「平和憲法」は、人類が「死」「いのち賭ける」という苦い思いをして得た人類の宝だと言えるが、それが発信できない日本においては「普通の国」「普通の教会(慈善団体の教会)」になったと思う。
「過去から学ぶ」は、過去を詳しく知ることではなく、その様な悲惨さをもたらした「人間の傾向」「弱さ」に気づき、彼らが残したものを「現在の中に生かさなければならないものと受け止めること」ではないだろうか。(ルカ)
平針だより224号より
心すべきこと 2014/12
「目を覚ましていなさい」「主の道を整えなさい」で始まった今年の待降節中、世間では衆議院選挙と重なり、候補者が走り回り、テレビや新聞は政党や個人の政策を報じられていた。
そのような中で、荒野に叫ぶ預言者ヨハネのことも朗読されたが、立候補者の声は現代社会の荒野に叫ぶものの声に聞こえた。しかし本質的に違うのは、「主の道を整えなさい。回心しなさい」ではなく、将来を約束する空手形と自己主張ばかりであった。
キリストの福音はまさに荒れ野に叫ぶ声であり、現代の社会の荒れ地に必要な予言であった。キリストの使命を引き継ぐ教会もそのような意味で現代社会の中に存在意義を見出します。それは信徒ひとりひとりにも言える役割である。 そのためには「目を覚ましていなければならない」し、「主の道を整える」ように心しなければならない。
消費社会の中で目先の豊かさと便利さばかりに目を奪われている。確かにそれらも必要だろう。しかし「真理を求める」勇気こそが今は求められる状況になった。選挙において立候補者の資質が問われることは当然だが、投票する人の資質も問われている。戦後最低と言われる投票率は日本の社会、国民が未熟なこと示している。他国の混乱を他人事としてはならないと思う。
平針だより223号より
おまつりの本質は?
キリスト教に起源を持つ信心習慣が、豊になった日本で盛んに行われるようになった。そこには宗教性も信心性もなく、ただ楽しいおまつりとして楽しまれているようだ。
最近コスプレが流行するなかで、ハローイン ンの仮装が盛んになったと報道されていた。大の大人が仮装で町中を練り歩いていた。元々は諸聖人の祝日の前夜祭の内々の祝い行事が派手な仮装大会となった。クリスマスのパーティを筆頭に、バレンタインもカーニバルも商業ペースの中で楽しまれて来ている。日本独特の楽しみ方かも知れないが、商業ペースに踊らされ、馬鹿騒ぎでは余りにも空しい。
日本の社会には、何かと習慣化した行事やおまつりがある。それは微妙に宗教性を帯びているし、人間の宗教性の心情が表れている気がする。それはそれで大切ではないだろうか。 問題は、それば便利さと楽しみの追求の「おまつり」では本当に人間の姿とはなり得ない。ハッピーマンデーと言われる月曜日に移動された休日は、「土、日、月」の三連休として便利にしたつもりのようだ。
しかしまつりの起こりや発生時の「歴史的な日時」が忘れられていくことで、失われて行くものがあることを忘れてはならないと思う。
平針だより222号より