カトリック平針教会/神父のメッセージ
森山神父 メッセージ

神父のメッセージ Back Number

 最近、信仰の基づく(とされる)行動が問題を起こすことが多い。本人は信仰の信念に沿っての行動を起こすのだろうが、周りは大迷惑ということである。その典型的な行動が「自爆テロ」と称して多くの人に死への道ずれをする行動である。

 信仰をもって生きる私達には大迷惑なことだ。しかし、迷惑というだけでは学ぶものがない。 「自爆テロ」というと私達には関係がない遠い他国の出来事と考えるかもしれない。しかし一方で、この出来事を自国の問題としてとらえ危機を煽る人もいる。その行動が「独りよがりの行動」というなら、どうだろうか。どこにでもあることではないだろうか。それこそ私たちの周りに蔓延している。

 以前「通り魔事件」ということが多かった。「理由もなく、被害にあう」という理不尽な事件に国民が嫌悪感をもった。まさに「独り善がり」の行動がそれをもたらした。この傾向は、個人の世界から、政治の世界、経済の世界にも「独り善がり」が知らず知らずのうちに影響を与えている。若者が出会い系サイトを利用しながら、事件に巻き込まれる事件はこの日本でも珍しくない。「こんなはずではではなかった」と後悔してもすでに遅い。被害者も加害者も「独り善がり」が事件を引き起こしているような気がする。

 問題が起こらなければ、それでいいのだろうが、人間の「純粋な知性と存在」は「独り善がり」では満足しない。 嬰児は嬰児なりに、子供は子供なりに、中高生は中高生なりに、青年は青年なりに、社会人は社会人なりに、家庭人は家庭人なりに、信仰は意識されていくものです。

 司祭としての私の願いは老いも若きも「独り善がり」ではなく、「真理を求める」意識を持ち続けてくれればと思う。 ここで「信仰」という言葉で言われる内容なとはどんなものだろうと思う。

信仰(信じる)は人間に不可欠な姿勢である。

信仰(信じる)は自己満足的な部分がある。

信仰(信じる)は他者の幸せを祈る。

信仰(信じる)は社会性を帯びる。

信仰(信じる)は排他的ではない。

信仰(信じる)は生き方の指針となる。

信仰 (信仰内容)は自分で決めることではない。

信仰(信仰内容)は深化していく。

信仰(信仰内容)のすべてを理解することはできない。

信仰(信仰内容)は共同体の中で深まり、実現していく。

信仰(信仰内容)は時空を超えてすべての人に向けられている。

信仰(信仰の姿勢)は各人に任されている。 信仰(信仰の姿勢)は人とのかかわりの中で身についていく。

信仰は限りある人生を豊かにする。

平針教会だより243号 より

救いを求めるところ(待降節)から始まった教会の暦も、聖霊降臨の祝いで、一区切りとなります。教会の暦のこの流れは、人は救いを求めながら、何を救いとするかも知らずに求め続ける人間の姿を表しています。一方で、このような人間に対して、神は人間の求めるもの、それも真に人間に必要なものを提供してくださっています。そして聖霊降臨の祝いは、人間を導くものは何かを示しています。

 さて、昨今の世界の動きを眺めると、政治の世界、経済の世界、社会の流れ、人々の動き、一人一人の考え方など、まさに混乱の極みのようにみえます。それはまた教会内部についてもいえるかもしれません。さらに事態を複雑にしているのは、それぞれが「善意を持っている、これが最高だ」という意識を持っていることです。「まさに独善」ということが問題だと思います。

 このような中で、多種多様な方法・価値観の中にあって調和をもたらすものは、まさに「改心と回心と聖霊による導き」でありましょう。

 聖霊降臨の出来事とその後の弟子たちの活動の仕方は、「改心と回心と聖霊の導きに従う」という姿勢の中に見られました。個人で努力しながらも、お互いに意見を聞き合う姿勢とゆるし合う「改心」の姿勢。それでも意見が違う時には、判断基準を神に置く「回心」を受け入れ、互いに認め合う。さらに人間の知恵ではなく、聖霊の励ましと導きに素直に従う姿勢で、人間の救いを求める本来の姿を追求し、生かされていました。

  いま世界は複雑になってきています。このような複雑な中で、一致の方向には何が必要なのかを知る私たちの役割は大きいと思います。聖霊に導かれていることを信じながら、勇気をもって進みましょう。

Placeholder image


 

インターナショナルミサに参加して。5/21

 

平針教会だより241号 より

 今年の復活祭を迎えるにあたって過ごした四旬節は、私にとって深く考えさせる時でした。それは毎日、ミサで朗読される聖書の箇所の時代背景が、まるで今の時代をそのまま反映させているようでしたから。そしてその極め付けが、受難の一週間であり、主の裁判と受難の場面でした。それは勝手な(弱い)人間の本能に支配され、自己中心で動く人間の姿でした。そのような人間に対して「キリストの救いの働き」が展開されていきます。キリストを取り巻く人間には、民衆がおり、男女がおり、子供がおり、青年がおり、指導者がおり、支配者がおり、それぞれにキリストは関わってかかっていきます。裁判が進むにつれて、人々の求めるものが「この世の支配者」となっていきました。

 そこでピラトが、「それでは、やはり 王なのか」と言うと、イエスはお答えに なった。
「わたしが王だとは、あなたが 言っていることです。
わたしは真理につ いて証しをするために生まれ、そのため にこの世に来た。
真理に属する人は皆、 わたしの声を聞く。」
「真理とは何か。」(18章37節)。

 

 いま世界の動きを見ると、キリストを取り巻いた人々のように見えます。国の指導者たちも、民族の導者たちも、経済界を動かしている人々も、そして人々の動きも、判断の仕方も、正に「この世のもの」でしかないという現実です。世界が一つになったとはいえ、考え方、感じ方、求め方が多様な世界で、「一致と調和」を求めることは決して人間の業でできることではないこと示しています。

 このような中で、唯一の道は「真理を求める」ことをキリストは示しています。ピラトは真理とは何かと聞くが、キリストはそれには答えていない。察するに「キリストの言葉を聞く」という姿勢がカギになるのでしょう。この姿勢は人間の欲望と人間の願望に従うものではなく、「永遠なる人間の存在を基準に考えること」を示してはいないだろうか。

Placeholder image

平針教会だより241号 より

 今年も早、二ヶ月が過ぎました。西暦年号、和号年号の区別が定着する間もなく、もう3月です。教会の暦も「四旬節」となり、主の受難と復活を迎える準備の期間に入りました。新しい年を迎えて元旦には、過ぎた一年を振り返り、来たる一年が幸せな年になりますように、と祈り決意しました。 しかし、この四旬節にはその時の「振り返り」と違った「振り返り」が求められています。

 この四旬節には教会では「回心」が言われます。通常「改心」と受け取られてしましますが、それでは足りません。 「改心」は「悪かったと悟って、心を改めること」と定義されています。このことに関しては、通常に誰でも振り返ることができる思いだと思います。誰でも良心があり、何か後ろめたいことがあるので、この「改心」の思いでは素直に自分を振り返ることができるでしょう。 これに対して「回心」は「神の正しい信仰へ心を向けること」といわれ、その目指すべきは「神」であることが中心です。これには「信仰という視点」が大切で、「道徳的な視点」だけではありません。しかし回心には改心が伴うのも必然です。 その「振り返りのポイント」は何でしょうか。 教皇様はこの季節に四旬節メッセージを出され ますが、その中で「金持ちとラザロのたとえ話」(ルカ福音書16章19~31節、メッセージは別紙で用意)からこの四旬節の振り返りのポイントを示しておられます。

 最近の世相や政治や経済の動き、私たちの生活の仕方、追求の仕方を見ると、豊かさこそがが「最終目標」のよう見えます。「豊かでなぜ悪い?」「便利でなぜ悪い?」という居直りのことばが聞こえて来そうです。しかし敢えて私たちは考えます。「人間の姿を見つめよう」と。 先日、四百年前の戦国時代に生きた高山右近が列福されました。彼は当時の日本の社会において福音の視点で果敢の対峙し、流刑に処せられました。右近の取り組みは今の時代に正に必要な模範であったと思います。 日常の個人的なことから、社会の一員としての視点から振り返ることが求められていると思います。

Placeholder image

平針教会だより240号 より

主任司祭 森山勝文

明けましておめでとうございます。

日本晴れで始まった新年の元旦は(主の日)日曜日にあたり、特別な思いで迎えました。世相は複雑・自己中心・経済中心の中でうごめいています。それぞれ一所懸命だろうと思いますが、所詮救いを必要としている人間の動きです。そこには限界があり、不完全な部分があります。 「特別な思い」といいますのは私たちキリスト者(カトリック者)には、日曜日は「主の日」とされ、主の復活を記念する日であり、この日が一年の始まりになったからです。またこの日は旧約聖書の創世記の中には「天地創造の業を完成させた後七日目安息された」という記載もあおり、「日曜日の意味」を考えさせられる機会となっています。 このように考えると、元旦日曜日は、過ぎた一年の完成祝いであり、新しい年の出発の時として実感させます。創造の業に協力している人間、完成に向かう人間として、あるべき方向と姿勢を自覚覚悟させる機会といえます。 世界の中で生きている私たちは、その世界の中で働いている神の恵みに気づきながら、完成に向かって出発しましょう。
Placeholder image

平針教会だより239号 より

「光陰矢の如し」

  失いたくないもの

主任司祭 森山勝文

一足先に教会暦の「新年」が始まりました。

教会暦は、救いを求める人間の姿を思い出させ、救いが与えられたこと、その恵みを生きていること、そしてその完成を思い出させる暦です。 

今年も教会学校の子供たちは、「クリスマスを待つ」をテーマに聖劇を発表する準備に取り組みながら「救いと待つ」を経験しています。 さて大人はどのように準備しましょうか。 私はこの季節を迎えるに当たって、今年は特に気になることがありました。それは日常使う言葉についてです。「救い」という言葉と「待つ」という言葉の内容です。 「救い」を求めて、「幸せ」を求め、「理想」を求めて個人も、社会も、世界もすべてが動き回っているようです。そこでこの季節のテーマ、「救い」とは何をいうのだろうと思う。誰でも救われたい、幸せになりたいと思いながらも、それぞれが勝手に模索し、混乱の中にあるようです。 

しかし、主が示されるところに「救い」があるのであって、人間の勝手な思い込みの中にはない。待降節第一日曜日のミサの朗読聖書はこの姿勢を指示しています。『主は私たちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』(イザヤ書)救いは「主が示される」のを忘れないようにしたい。 さらに「待つ」とうこの季節の姿勢も何をいうのだろうか。待つ姿勢にもいろいろある。寝て待つのも姿勢、やたらに右往左往するのも一つの姿勢、自己実現を求める姿勢もあるかもしれない。 

パウロは「闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身につけよう。キリストを身につけよう」と勧める。マタイ福音では「目を覚ましていなさい。いつの日、主が来られるか分からないから。」ともいう。 「人間にとっての救い」、「救いを求めての待つ姿勢」は、私たちにさらに深く「救い」と「待つ」を考え、覚悟することをこの季節は迫って来るように思う。

   平針たより 238号より

「光陰矢の如し」

  失いたくないもの

主任司祭 森山勝文

「光陰矢の如し」ということわざを中学生のころに英語と日本語で知った。しかし今は「知る」のではなく、「体験し、実感している」。世の中の出来事は、振り返るまもなく、いろいろなことが起こる。それに「福音の視点では」など言っておれないほどの勢いで押し寄せてくる。子供にも青年にも大人にも、男にも女にも、家庭にも地域にも、国にも、世界にも、経済活動にも社会活動にも、容赦なく「出来事」は押し寄せてくる。残念なのは、それに翻弄されていることに気が付かないで過ごしていることだ。 そんな中、黙想会の下見ということで、企画している信徒のみなさんと一緒に信州・軽井沢に案内同行した。信州・軽井沢は一年間過ごしたところで、私には「故郷」のような場所である。下見での感想は参加者に書いていただいたのでお読みいただくとして、私には「光陰矢の如し」を実感している参加者には、私が思った通りの感想でうれしく思った。 名古屋からの道中、信州の鎌倉といわれる上田の近く「塩田平」に寄った。そこには千年以上の歴 史があり、山腹に散在するお寺は現在でも宗教信仰施設として生きており、日本文化の中の宗教 施設の在り方を示しているように思う。その中に「無言館」という人間の悲しさを示す施設もある そして、軽井沢。そこは明治以降、文明開化の中で発展してきたところであるが、自然を破壊することなく設置された雰囲気は、自然の恵みを感じさせるところである。神学生のころ夏、そこで黙想することに「贅沢である」と大先輩の外国からの宣教師にかみついたことがある。その時、宣教師は「贅沢以上のものをここで見出さなければ私たちの仕事はできない」と静かに諭された。軽井沢を愛したその宣教師は一度も帰国することなく日本で宣教活動し、日本の土になった。 怒涛の如く押し寄せる時代の波に、押し流されることなく生きるためには、神様が用意してくださる歴史、自然、文化を深く洞察していかなければならないと思う。若気の至りで言った「贅沢である」という感覚は、信州を巡りながら、軽井沢を散策しながら、感謝とともに、「失いたくないもの」を思い出させるものに変わってきた。皆さん にも味わわせたいと思う。

「義に飢え渇く人々は、幸いである。 その人たちは満たされる。(マタイ5/6)」

平和旬間の教会

軽井沢・見晴台にあるインドの詩聖タゴールの像。遠く関東平野を眺めている。日本の自然に感激しながら、時の政治に警告を発した

   平針たより 237号より

残暑お見舞い申し上げます。

主任司祭 森山勝文

 異常気象という言葉が、異常でなくなるほどの、異常な気候の夏でした。皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。

 日照り、局地的な降雨、気温の上昇など、「こんなこともあるさ」と言って片づけられないような気がしました。それに今年はリオのオリンピックがあり、クーラーの効いた部屋で、観戦するには退屈しない夏だったと思います。

 今年も平和を祈願しての「行事」も「戦争の悲劇を忘れない、後世に伝えよう」という視点で報道されていました、

 名古屋教区でも「平和旬間」(8月6日「広島の原爆投下記念日」から15日「聖母被昇天の祝日」)を中心に、平和の実現のために、祈り、行動するように勧められていました。個人でそれぞれ平和を祈願する思いを抱かれたと思いますが、私たちの平針教会では、この間特に「平和を求める祈り(アッシジのフランシスコ)」を個人で毎日祈り、14日の日曜日のミサで特に祈りました。

 また今年は、教会前の通りから見える場所に「平和旬間・真の平和は、受け入れ、赦し、尊重する調和のうちにある」という垂れ幕を掲げました。それは、教会の前を通る人に、「教会はこんなことを考えている」と示すためでした。日常生活の中で「平和」を考えるきっかけになればと思いました。

 どんなに暑くても、世界にはいろいろな出来事は起こります。出来事を考え、思索し、祈り、勇気を持って行動することが必要でしょう。一人一人はできることは少なく、小さいかもしれませんが、気づくことから始めましょう。

「義に飢え渇く人々は、幸いである。 その人たちは満たされる。(マタイ5/6)」

平和旬間の教会

「平和旬間」期間中、掲示された垂れ幕。行き交う人に

一つの気づきとなればと思います。

   平針たより 236号より

「春日井神父様の帰天」2016/7

 5月20日、正午頃、春日井神父様は老健施設サンタマリアで皆さんに見守られながら静かに息を引き取りました。八十八歳と十ヶ月でした。

続く、通夜の祈り、葬儀ミサは、修道会の慣例を破り、平針教会ですべて行なわれ、松浦司教さまも参列し、大勢の信徒の方や会員の仲間達が祈りを捧げました。

春日井神父様が平針教会の共同体に共に生活するようになって丸八年。私との共同生活もありましたが、信徒の皆様との交流や人が行き交うところに気軽に行ける教会の立地条件は、彼が老後の司祭生活を送るために最適な場所だったのでしょう。

車を運転して乗り込んで来た春日井神父も、一年後の車検の時に車を手放し、地下鉄をつかっての散歩を楽しむようになりました。その後は順調に(?)加齢による体調の不具合がありましたが、司祭館にいながら、生活支援を頂き生活していました。

 昨年の十二月デイサービスに行っている時に、不具合を訴え、入院することになり、最後は老健施設サンタマリアにお世話になりました。肺機能が衰え、誤嚥の危険がありましたが、とろみのある食事を前晩まで頂いていました。その後急に肺機能が衰え、酸素の取り入れが行えなくなり、痛みや苦しみを訴えることなく静かに息を引き取りました。

 ご遺体には修道服を着せ、修道者として自己奉献したしるしのメダイを掛け、棺には、宣教者として派遣された十字架を置き、司祭のしるしのストラを掛けました。そうすべきであったかどうか分かりませんが、人生最後の場面で一緒に生活した者の責任として、そうして上げました。臨終で大切な事は、人生の最後の場面で誰といるかは、死を迎える時の真の安らぎになるということをここでも実感しました。 主よ、永遠の安らぎを彼に与えたまえ。

春日井神父様の帰天

平針教会だより235号 より

「復 活 体 」

 復活されたキリストの姿について、毎日のミサの福音ではそれぞれエピソードという形で私たちに伝えています。その中で気がついたことは復活したキリストが次のような様式であったことが示されています。

「幽霊みたいではでなかったこと」

「見ただけではイエスと分からなかったこと」

「食事を共にしたこと」 「共に歩いて神の計画を示されたこと」

「弟子たちの集まりの真ん中に立ったこと」

「弟子たちの食事の用意をして下さったこと」

「呼びかけて自分を示されたこと」

「聖霊を遣わし使命を託されたこと」

「父と一体であること」

など、キリストの有り様がそれまでのキリストとは違った姿が示されています。さらに、大群衆を前に自分の姿を示されたのではなく、呼びかけられた弟子たちに対してだけであったと言うことも不思議に思いました。

 このようなキリストの有り様(存在の仕方)を「復活体」と呼ぶことがありました。

 さらにこの典礼暦の中で「いのちのパン」についても黙想されます。「これは私のからだである。食べなさい」「これは私の血である。飲みなさい」という言葉も出てきます。この言葉は生前に人々の告げたとき、当然誰も理解できませんでした。「そんなバカなことがあるか」と思ったことは仕方がなかったかも知れません。目の前で話している人が「私を食べろ」というわけですから、理解できなくて当たり前でした。

 この復活したキリストの有り様は、私たちに「食べることも、肉体が復活することも可能なこと」を示しています。毎日の「ミサ」(御聖体)は復活したキリストがあって初めて成り立つ信仰です。「御聖体」に生かされた日々を過ごす喜びをもって毎日を過ごしましょう。

Placeholder image
復活の命がすべての人へ

平針教会だより234号 より

「回心と復活」

 今年の復活祭は、丁度、日本の社会では年度替わりに当たり、自然が芽生え、生活のリズムに合致するものとなりました。教会の典礼暦は一年で巡りますが、それは決して同じ事の繰り返しではありません。それは私たち自身が毎年毎年違ってくるからです。この違いの中で神様の働きは、その時その時に必要な恵みを下さるからです。子供たちにとっては、一年の変化は希望に燃えた進展に感じられるでしょうが、高齢者にとっては、人生の終末に向かっての歩みに感じらるでしょう。昨年は存在しなかった新しい命の誕生を喜びますが、一方で、昨年は共に神を賛美した方が、今年はその姿が見えないという現実があります。

 教会は復活祭を迎える前に、約四〇日の四旬節を過ごします。この期間はキリストの受難の原因になった自分を振り返り「愛の実行と犠牲」が求められますが、「深いところ」では「神に向かうべき人間の姿を見つめる(回心)」期間と言えます。ここで感じられる「悟り」は「キリストの復活」によってしか、満たされません。

 これが私たちの信仰と言えると思います。 「復活」とか「永遠の命」とかいうと「死後の世界の話し」と勘違いしている人がいます。決してそうではありません。「時間の世界の中でのたうち回っている」人間が、実はその中にあっても、「永遠の価値と神様の恵みの中で生きている」事を示しているのです。このことをキリストは最後の出来事(受難と死)を通し、「復活」をもって示されたのです。これが私たちの復活信仰と言えますし、これに基づいての毎日の生活は信仰者の生活ということが出来るでしょう。

 毎日、平針教会で、「十字架の道行き」に囲まれ、祭壇で「復活の信仰の儀式」を執り行いながら、自分に与えられた人生の時間をのたうち回りながら生きようと決意しています。そしてこの場所で共に祈った皆さんも復活の信仰の喜びを生きますように、と。

Placeholder image

 

復活の喜びがすべての人に

平針教会だより233号 より

「回心の自覚?」  2016/7

 年末年始にかけて、時間の流れ中で何か大事かを感じさせられるのは私だけだろうか。政治や経済活動の活発化とマスコミに踊らされる風潮は、危険なものを感じる。

 日本の司教団は「安保法案」の廃止を求める署名活動を始める。それはそれでいいことだが、その呼びかけ文に「戦争法」という言葉を使っていることが気になる。正式に訴えるときには「正式名称」を使わなければならないと思う。マスコミにのった言葉では、そこからくる言葉が「あることを刷り込ませ」てしまい、本当に検討すべき中身と真意が伝わらなくなる。教会の信徒の中にも「賛成論者」も「反対論者」もいる。政策問題については、それぞれに「根拠」がある。そこには絶対的な自己主張はないのではないだろうか。

 ここで大切なことは、意見の違うものとの「対話」のためには「ことの真意・真相・有るべき姿」を深める必要がないだろうか。それは、「対話」といえるだろうが、さらにキリスト者には「相手を受け入れる姿勢、相手に受け入れられる姿勢」が共に必要で、それは単なる「妥協」ではなく、「回心と愛による姿勢の譲渡と受け入れ」なのだ。

 今世界に呼びかけるのに必要なことは次のことではないかと新年早々考えた。

①信仰する者としての視点からの問題提示の必要

②自分の意見を持ちながら、相手を認め、自分も認められるための永遠の対話姿勢

③直近の豊かさではなく、精神的豊かさの追求していく勇気

 キリストは、ローマ帝国に支配された時代に、律法学者の勝手な律法解釈に対して糾弾した。一方で、奇跡を行い、弱い者を助け、病人を癒やし、食べ物を提供したが、それは「永遠に、全体に」ではなく、当時の一部の人に対してであった。「自分にはその力がある」とは示しながらも、決して、「全体に、永続的に」その奇跡を行ったのではなかった。「もしそのように神の力を発揮していれば、今の世界の争いはないだろう」と思うのは幼稚な推察だろうか。

 自由と知恵を与えられた人間には努力の部分が残されている。それは「自由と責任と知恵」を与えられた人間の宿命(使命)でもある。それは個人も社会も国家にも同じ宿命である。 キリストは宣教の呼びかけに「悔い改めて福音を信じなさい」と力強く発しました。これは、道徳的なことば、心情的な呼びかけではない。「人間の本当の姿に気付きなさい」と言える。これは大人にも子供にも呼びかけられている言葉なのだ。それぞれの「回心の自覚」こそ今必要な事のように思う。

平針教会だより232号 より

いつくしみ  2016/7

 「福音」と言いながら、何かがあると「教会法」「教会の決まり」「制度」が振りかざされ、 「これが福音の生き方である」と言われる。

 そうなれば「へへー、お代官様」とひたすら、頭を たれ、従順にならなければならない。 そこで、聖書を柄にもなくひもといてみると、イエスの姿は、規則(律法)の振りかざし、 信仰者ぶった人々に対して、「呪われた者よ」と叱責している。キリストは赦しを求める者を許 し、受け入れている。「今後、間違わないようにね。」と語りかけ、一方では、「七の七十倍も 許せ」といわれる。

 このようなイエスの姿は今の教会にあるだろうか、と思う。 2015年十二月八日から、「神のいつくしみの特別聖年」が始まる、「いつくしみ」という言葉がキー ワードになるが、「神がいつくしみのまなざしで人間を見ておられる」のに、「人間はいつくし まれている」ことを無視し、忘れている。このことに気づかせる特別聖年であろう。

 このところ 金曜日のミサ後の勉強会で「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」という大勅書を読んだ。 その中で、「イエスは神のいつくしみの表れ」であること、さらに、「キリストの共同体として 教会もいつくしみの表れ」であること、さらに「信徒自身も神のいつくしみの表れ」であること を気づかせてくれました。それは「人間を励ます」と共に、「人との関わりのあり方」も示していま す。 「生きている意味が分からない」と何となく感じている世相にあって、「人間は今だけではない 存在である」ことに気づかせるのは、教会の役割ではないだろうか。

平針教会だより230号 より

「存在せよ」  2015/6

 

 聖霊降臨の祝日で、教会の典礼の暦も一段落しました。待降節から始まった神の救いの計画と人間が復活の希望の中に生きていくことを半年をかけて黙想して来ました。 こんな時にアメリカの抽象画家バーネット・ニューマン(1905~1970)の「十字架の道行き」という絵の展示がされていることを知り、見に行きました。

 絵画は襖二枚くらいの大きさのカンバス十五枚。白黄色の下地に縦に黒い帯のような線があるだけでした。私が興味を持ったのは「レマ・サバクタニ(何故、私をお見捨てになったのですか)」「十字架の道行き」「存在せよ」という表題がついていたからです。

 人生はまさに「ラマ・サバクタニ」と叫びたくなるのが現実です。身近なことから、世界の諸問題を見聞きする度に、「何故お見捨てになったのですか」と叫びたくなる現実に出会います。

 ニューマンはこの呼びかけ、叫びに対して十四留の「受難」にその答えを見出そうとしているようでした。そして最後に「存在せよ」という画で、左側の黒い細い線を、右側に赤い線を縦に対比して描いていました。 ニューマンがカトリック信者であったかどうかは知らない。しかし、その三つの表題は、まさに私たちの信仰宣言であると思ったからです。

 特に「十四個の留」は、カトリックの中で伝統的に生じて来た信心業である。展示物に単に「◯◯留」と表記されているだけで、その説明はない。各留の意味を知っている私はそれを思いながら眺めたが、「さっぱり分からん」というのが正直な感想だった。 最後十五枚目は「存在せよ」と記述されていた。この言葉は私には「主の復活」という意味にみえた。

 今のカトリック教会では「十字架の道行き」にも十五留が追加され、「主の復活」と表記し、「死に対する勝利を意味する主の復活」が黙想されるようになった。 「なぜ、お見捨てになったのですか」と叫びたくなる現実に対峙するには、聖霊を受け、聖霊に励まされ、生かされていくことで、「存在の意味」を確認出来るのでしょう。

 聖霊降臨の祝日後の「年間」という典礼暦は聖霊と主の復活に生かされた毎日であることを教えています。信仰は単に精神性の問題ではなく、存在の問題であることを忘れないようにしよう。

平針教会だより 227号より


復活に向かって 2015/3

 

 四旬節第3の日曜日の聖書朗読で、「神の十戒」が朗読され、神殿を清めたイエスの出来事が黙想されました。

 「神の十戒」は人間の基本的な姿勢です。はじめの三つは神に対する人間の態度が示され、あとの七つは人間関係のあるべき姿が示されています。どのような宗教(信仰)であっても、信じる対象を尊敬し、礼拝し、人間のつながりについてのあるべき姿・基本は同じような気がします。

  「神殿を清めた」というイエスの行動は何を私たちに教えているのでしょうか。

 当時の人も神殿で商売のようなことをしていたようですが、贔屓目に見てあげれば、「神殿への参詣者が、神を礼拝し祈るために助けてあげたのではないでしょうか」。イエス様も神殿に定期的に通っていたと思います。もちろん両替屋や捧げ物を売る人には、下心があったとしても。そんなに怒らなくてもいいのではと思ってしまいます。この話のあと、四〇年以上もかけて作った神殿を壊せ、私は三日で立て直すというところが話の核心です。

 イスラエルの民は、寝食を投げ打って神殿を作ったでしょう。神殿は正に神との出会いの場であり、祈りの場であり、生贄を捧げる場でした。しかし、イエスはまさにご自分が救い主として「十字架にかけれ、復活する」ことを通して、「真の礼拝が、生贄が捧げられること」を示されたのです。

 十戒の教えを超えて、「神との出会いの場がイエスのできごとの中に、死と復活のできごとの中にあること」を示されたのです。ここに神殿を清めた意味があると思います。

 つまり、イエスこそが神殿であり、礼拝の場であり、生贄であり、神との出会いの場、救いの場であることを示されたのです。

  四旬節中に、回心と愛の実行が呼びかけられていますが、その行為が「良い人になるための努力」だけでは足りないのです。それは「旧約の神の十戒を守っているだけ」になってしまいます。私たちの努力は「復活したキリストとの出会い」に方向づけられていなければならないのです。

 復活したキリストが共に歩いてくださり、礼拝してくださっていることを思い時を過ごそう。

平針だより225号より


今必要な事 2015/2

 

 通常「カイシン」と言えば、「改心」を当てます。

 その意味は、平たく言えば、「悪いことをしないように、悪いことをしたら謝るように、いい人になりましょう。親切な人になりましょう。愛を実行しましょう」のように理解することが多いようです。つまりは「道徳的な行為と改善と決意」を求めることが多いようです。

 このような姿勢は人間が社会生活をするための基本的な秩序だといえます。日本では、例外的なことはあったとしても、一般的に「道徳的な秩序」はそこそこ整っていると言われます。

  しかし、キリストの求める姿勢、キリストを信じる者の姿勢は、同じ「カイシン」でも「回心」と表記します。

 これはただ「改心」だけではなく、「神に向けて考える姿勢」です。そこには道徳的な改心を超える別の視点での心の変化です。だから「回心して福音を信じなさい」と言われるのです。

 では、福音を信じる具体的なこととはどのようなことをいうのでしょうか。

 一例を上げれば「原発の再稼働について」を例にして考えてみます。「資源のない日本では電力エネルギーは、経済発展のため、生活のために必要で、そのために原発は必要」と言われます。ここで、「経済発展の限度」「生活の便利さの限度」は考慮されないのです。それは無制限です。無制限にものを必要という感覚は「正に人間のおごり」です。

 ここで人間とは何か(神の似姿として作られた存在)と考えるときに、人間の本性(罪深く弱い人間の姿)に逆らって、決断しなければならないのです。

 このような視点で日常の出来事を見て、実行することです。それが「回心して福音を信じる」というのではないでしょうか。

  「権利の主張」「主義の主張」にも限度があると言うことを「知り、認める」ことが「、回心して福音を信じる」というのではないでしょうか。

平針だより224号より


主の聖誕の喜びと 新年の祝いを  2014/12

 

 クリスマス(主の聖誕の祝い)の前に四つの日曜日を過ごし、準備をしてきました。

 その中で「目覚めていなさい」「主への道を整えなさい」「あなた方の知らない方がおられる」という聖句が各日曜日の主題になっていました。この言葉は、ひとり信徒のためばかりではなく、真理を求めて生きようとする人に向けられた言葉と解することが出来ます。

 さらにこの季節の聖書の中でもう一つ私には大切な言葉がありました。「 “霊”の火を消してはいけません。 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」(テサロニケ1の5章)でした。

 公私共々、混沌とした社会の中で、どのような姿勢で事に当たるかが問われています。国内でも海外でもいろんな問題が報道されます。自然災害の中での悲劇もありますが、多くの場合、自己主張のために、多くの血が流れ、人間が無視された人為的な「悲劇」も少なくありません。

  理想を語り、夢を語り、将来を語ることが得意の人がいます。しかしそれだけでは、問題は解決しません。その目的に向かうために必要な姿勢・価値観・世界観、さらに最も必要な「人間観」が基本になければなりません。

 そのような中で、先の聖句は今の世界だからこそ必要ではないでしょうか。信者だけが持っている問題解決の方法ではありません。 聖誕祭は人間の持っている尊さを教えます。しかしその尊さは、3人の博士たちのように「求め続け」「探し続け」、羊飼いたちのように「現実に生きながら救い主を求める素直な人」にしか見出せません。

 新しい年を迎えることは、「時間の中に生きて」いること感じさせます。これは「試行錯誤の時間」です。だから間に合うのです。恵みを感じながら、新しい年を過ごしましょう。

平針だより223号より


片思いと一目惚れ 2014/11

 

 十一月十五日から二十二日までの一週間、「聖書週間」とされ、「聖書に親しもう」と呼びかけられました。

 さて「親しむとは?」と考えました。 聖書を学問の対象として読むことも出来るし、道徳の書として読むことも出来ます。また古典として読む人もいます。しかし、信仰者にとって、聖書は「信仰の書である」といえます。 問題は「信仰の書はどのように読んだらいいのか」ということです。

 聖書を神様からのラブレター(恋文)と表現した人がいました。私はこれが一番正確なような気がします。ラブレターは「相思相愛」が前提で、他人が読んだら滑稽なものです。相思相愛の前に、「片思い」と「一目惚れ」があるような気がします。神様は一方的に愛の溢れとして人間を造られたので、「片思い」で人間を見ておられるといえます。神様はご自分が造ったものを最大限の愛で見てくださっているというのは私たちの信仰です。愛する理由もご存じです。

 しかし一方で、人間側は、神のなんたるかも分からないので、惚れようもない。しかし、神の愛によって造られた人間は「愛する者を求める」宿命にあります。このような人間が神様に対して「一目惚れ」で、「神様の思い」を感知していく。そこには人間の「恋い焦がれ」と同じで理屈はありません。

 聖書は正に「この人間に対する神の片思い」が綴られており、それは一目惚れした人にしか分からない片思いなのです。だからラブレターという表現は一理あると思う。聖書を無神論者も読むことができるし、解説することが出来る。しかしそれでは「片思いの愛」は伝わらない。聖書には神の「片思い」が詰まっていると「一目惚れ」して読むときに本当の読み方が出来るのではないでしょうか。

平針だより222号より


大自然と人間の行い 2014/9

 

 十一月十五日からず、天候に関してである。狭い日本なのに、局部的な大雨がいろいろな所で降り、被害が続出した。

 気温に関しても、全国的に猛暑と思えば、局部的に猛暑もあった。まるで「大自然」が寝苦しい夏の夜に寝返りうっているようなもので、それに人間は翻弄されたようにも思う。その被害にあった人はたまったものではない。自然の気まぐれをなんとかしてくれといいたくなる日々だった。

 長い目で見れば「大自然界」は「自然のままの現象」だったのだろう。人間も自然の中の存在という大前提を思い出させた。 それにもまして奇妙に感じたのは人間の行いという「人間界」のことだった。世界が小さくなったためであろう世界各地で見られる「事件」「殺戮」「事故」が頻発した。一昔前なら一地域の出来事として知らないで済んだことが、一瞬のうちに世界を巡り、政治経済に影響を及ぼす。そして、さらに悪いことはそれに翻弄され、危機感が助長され、「疑心暗鬼」となり、「愛国心」という自己中心の結束で、身を守ろうとする動きである。

 戦後七〇年にもなろうとする今日、「戦争で学んだこと」も薄れたり、忘れたりしてしまう。そして威勢のいい人たちが「お国のため」といいながら、「当然である」と国を動かしつつある。科学技術の発展はどん欲に広がり、「ほどほどを知らない人間」にその便利さを提供し、結局は、人間をダメにしてしまう方向にある。

 私たちは8月中、特に平和を求めて、「フランシスコの平和の祈り」を歌った。そこには人間の限界を知り、お互いに許し合い、愛し合うことが主張されている。大自然にも謙虚に、人間の技術に対しても謙虚であるべきことが今一番心しなければならないことではないだろうか。

平針だより220号より

  • サイトマップ