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日本二十六聖人殉教者に捧げられた教会

カトリック平針教会

     Hirabari Catholic Church

 

  プロフィールと歴史

カトリック平針教会の高い鐘楼

「カトリック平針教会」は、日本26聖人殉教者記念教会として 1979年に創設されました。

京都から長崎までの苦難の道のりを歩み殉職された「日本二十六聖人殉教者」に捧げられた教会です。

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  初めての教会

十字架のイエス様

主イエス・キリストの教えに興味 がある。 教会に行ったことはないけれども、一度行ってみたい。

知り合いがいなくて行きづらい。 そのような方へのご案内です。

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  十字架の道行きの祈り

秋山康恵氏、弟子の足を洗うイエスのレリーフ

聖堂内に秋山康恵氏による、イエス・キリストが 十字架を担って歩んだ 受難の道のりを 描いたレリーフが掲げられてます。ひとつひとつの場面を心に留めて祈り、黙想します。

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築35年経った私たちの教会の建物のリニューアル工事を行いました。

「錆びた部分」「劣化した部分」「タイルの剥離」「汚れ」「雨漏り防水」など工事でした。

 今後も末永く私たちの「故郷の教会」として存続していけるようにご協力をお願いします。

 目標金額は3年間で、リニューアル費用と同額の1500万円にしたいと思います。

  • 1家族、お一人様の献金額は特に定めておりません
  • 1口1,000円を基準に「毎月」でも、「まとめて」でも結構です。
  • 専用の封筒か振込用紙を利用して、献金くださいますよう、お願い致します。
  • 郵便振替口座番号  00860-1-105898    加入者名 カトリック平針教会
教会リニューアル工事献金のお願い

神父からのメッセージ

 最近、信仰の基づく(とされる)行動が問題を起こすことが多い。本人は信仰の信念に沿っての行動を起こすのだろうが、周りは大迷惑ということである。その典型的な行動が「自爆テロ」と称して多くの人に死への道ずれをする行動である。

 信仰をもって生きる私達には大迷惑なことだ。しかし、迷惑というだけでは学ぶものがない。 「自爆テロ」というと私達には関係がない遠い他国の出来事と考えるかもしれない。しかし一方で、この出来事を自国の問題としてとらえ危機を煽る人もいる。その行動が「独りよがりの行動」というなら、どうだろうか。どこにでもあることではないだろうか。それこそ私たちの周りに蔓延している。

 以前「通り魔事件」ということが多かった。「理由もなく、被害にあう」という理不尽な事件に国民が嫌悪感をもった。まさに「独り善がり」の行動がそれをもたらした。この傾向は、個人の世界から、政治の世界、経済の世界にも「独り善がり」が知らず知らずのうちに影響を与えている。若者が出会い系サイトを利用しながら、事件に巻き込まれる事件はこの日本でも珍しくない。「こんなはずではではなかった」と後悔してもすでに遅い。被害者も加害者も「独り善がり」が事件を引き起こしているような気がする。

 問題が起こらなければ、それでいいのだろうが、人間の「純粋な知性と存在」は「独り善がり」では満足しない。 嬰児は嬰児なりに、子供は子供なりに、中高生は中高生なりに、青年は青年なりに、社会人は社会人なりに、家庭人は家庭人なりに、信仰は意識されていくものです。

 司祭としての私の願いは老いも若きも「独り善がり」ではなく、「真理を求める」意識を持ち続けてくれればと思う。 ここで「信仰」という言葉で言われる内容なとはどんなものだろうと思う。

信仰(信じる)は人間に不可欠な姿勢である。

信仰(信じる)は自己満足的な部分がある。

信仰(信じる)は他者の幸せを祈る。

信仰(信じる)は社会性を帯びる。

信仰(信じる)は排他的ではない。

信仰(信じる)は生き方の指針となる。

信仰 (信仰内容)は自分で決めることではない。

信仰(信仰内容)は深化していく。

信仰(信仰内容)のすべてを理解することはできない。

信仰(信仰内容)は共同体の中で深まり、実現していく。

信仰(信仰内容)は時空を超えてすべての人に向けられている。

信仰(信仰の姿勢)は各人に任されている。 信仰(信仰の姿勢)は人とのかかわりの中で身についていく。

信仰は限りある人生を豊かにする。

平針教会だより243号 より


 教会の中でも、年度変わりになり、いろいろ移動が行われる。最近は9月の移動もありそうで、聞けば、外国の就学年度との関係で、移動の変わりが9月とのこと。学校などに勤務する会員は新年度に向けての移動になるが、小教区関係の移動は復活祭を終えて、一、二週間のうちに行われる習慣がある。

 教会関係の移動はどのようなタイミングで行われるか。若い司祭は2、3年で、中堅どころの司祭は5、6年で、多少年齢を重ねると10年前後で、転勤があるというのが一般的のようだが、原則はない。長さは任命権のある上司にあたる者の考え方と、本人の性格、仕事の仕方によるような気がする。

 ある地方で働く司祭の中に、同じ場所に45年以上いたという宣教師がいた。その長さに異口同音に「長すぎる」と批判が出たが、そうだろうか。幼稚園も運営していた彼は、多くの園児を育て、その地方の名士にもなり、教会外の人たちからも慕われていた。そして教会堂も司祭館も幼稚園もその司祭の手が入り、大事に使われ、その街にすっかり馴染んでいる様子がうかがえた。これが、3,4年で司祭が代わっていたらどのような教会の姿になっただろうか。地域の人々に安心感を与える教会の姿は、今の日本では必要な配慮ではないだろうか。

平針教会だより241号 より

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