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日本二十六聖人殉教者に捧げられた教会

カトリック平針教会

     Hirabari Catholic Church

 

4/ 1 主任司祭にイグナシウス・クリスティアヌス・バサ(Ignatius Christianus BASA)神父(インセン神父)が就任しました。 (新任司祭のご挨拶はこちら)

2/14 森山神父からのお別れの挨拶を掲載いたしました。(こちらから)

2/14 森山神父からのメッセージ更新しました。(こちらから)

12/18 森山神父のコラム更新しました。(こちらから)

12/18 インセン神父のメッセージ更新しました。(こちらから)

4/ 1 主任司祭にイグナシウス・クリスティアヌス・バサ(Ignatius Christianus BASA)神父(インセン神父)が就任しました。

2/14 森山神父からのお別れの挨拶を掲載いたしました。

2/14 森山神父からのメッセージ更新しました。

12/18 森山神父のコラム更新しました。

12/18 インセン神父のメッセージ更新しました。

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新主任司祭の挨拶

「三位一体の霊性に基づく教会共同体」 インセン神父

1.教会共同体:

 「共同体」とは、「できあがったもの」ではなく、「できあがりつつあるもの」です。つまり、「教会共同体に信仰の集いとして、多くの人が集まってきたのです。カトリック教会は普遍的教会です。普遍的というのは、全ての人(神の民)のための教会です。民族や文化の違いを越えて、キリストの内に一つのファミリーとして過ごしていくという教会の本来の姿です。

 普遍的な教会の姿は聖書の中に書いています。コリントの信徒への手紙-12章12節と13節に使徒パウロがこう言っています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分の者であろうと、皆一つの体となる為に、洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」と。

 そう言った意味で、例えば、この教会には、国籍や文化、言葉や習慣、さらに、一人の人間として、考えや性格、趣味、価値感といういろいろな違いがあるにもかかわらず、神様が私たち一人ひとりを呼んで、ここに集めてくださったのです。神の呼びかけで、わたしたちは一つのファミリーとしたのです。しかも、キリストご自身がこの私たちの教会をデザインしてくださったと、わたしは信じています。この大切なポイントを一人の信者として忘れてはいけないと思います。ですから、私たちは色んな面で多様性を示しますが、キリストの体の健康の為に皆が絶対に必要です。 

2・三位一体は共同体の土台:

 主イエスは三位一体の一体性について、こうおっしゃいました。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)。「一つ」ということは同一という意味ですが、ここで言う「一つ」とは、「わたし」と「父」とがそれぞれの存在の固有性を持ちながら、なおかつ「一つである」という不思議な関係なのです。つまり、それぞれの存在や働きが違っても、思いや心は一つであることを意味します。天地万物をお造りになった御父、世の罪を取り除く御子、世の交わりを支える聖霊という異なる存在や働きにもかかわらず、皆は一つです。それが三位一体の素敵な姿であり、美しいところであると思います。ですから、教会また共同体が三位一体を土台として立てられるなら、その教会また共同体も当然美しいものになるでしょう。

 まず、虹です。「虹」、英語で言えばrainbowのことをご存じでしょう。自然の出来事として虹は最も美しいものだと誰も認めていると思います。「虹」の一つの特徴は、様々な色が存在するにもかかわらず、互いに調和することで生じています。それぞれの色が混ざり合うことで、美しく見えるでしょう。

 教会共同体を考えて見れば、わたしたち一人ひとりの存在はある意味で虹のようです。まず、国籍や文化、言葉や習慣、さらに、一人の人間として、性格、趣味、価値感という「虹」のように、様々な色が存在していると思います。しかし、その異なる中で、「互いに認め、理解し合って、受け入れること」ができるならば、教会の姿が美しく見られると思います。ですから、教会の中にある異なることは問題の原因になるではなく、信仰の美しさの元になるものです。 主イエスはこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)。

 トマスというイエス様の12人の弟子の中の一人ですが、トマスと言うと、すぐわたしたちの頭に浮かぶのは、「主イエスの復活の神秘」を信じなかった人です。しかも、自分と立場を同じくする十人の使徒たち全員が、「私たちは主を見ました」と証言しているにもかかわらず、トマスは信じなかった。「私は、あの方の手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と。

 では、ここで質問です!トマスが信じなかった理由は、何でしょうか?信仰が足りなかったから?もしくは、信仰が薄かったから?実は、そうではありません。本当の原因ではないと思います。しかも、信仰が足りなかったとか、信仰が薄かったということは原因ではなく、それは言うまでもなく結果のです。本当の原因は、「共同体から離れたからです」。聖書によると、イエスご自身が、弟子たちの所に現れた時、トマスが、あそこにいなかった。「他の弟子と一緒にいなかった」。皆と食卓を囲まなかったし、一緒に祈りもしなかったそうです。共同体の中にトマスの姿が見えなかったのです」。共同体から離れて、仲間の群れから外れてしまった上で、結果として、共同体との信頼関係を失ってしまったし、さらに、インパクトとして、イエス様への信仰も薄くなってしまっただろうと思います。

 わたしたち自身も、もし教会の群れから離れると、まず、信徒同志との信頼関係をどんどん失い、インパクトとしてキリストへの信仰も薄くなってしまうということも可能なのです。家庭内の人間関係も同じだろうと思います。いつも家族と離れて、そして互いにあまりコミュニケーションや連絡をし合わなければ、どんどん気持ち的に遠く離れてしまい、それ上に、お互いの信頼関係も失ってしまうと思います。放蕩息子の物語も、だいたい同じことを語っているだろうと思います。彼の悩みや苦しみ、また絶望に巻き込まれた、という状況は、親からもらった財産や金を無駄使いになったということが原因ではなく、それはどちらかというと「結果」です。原因は「家族:父親の元から離れたからです」。喜びの源との縁を切り離したからです。

 私達は一つの共同体として教会共同体のことを反省して、そして家庭内の人間関係も改めて反省しましょう。まず、教会また家庭生活の中で一人のメンバーとして、他者の存在をどれだけ意識しているのか。どれだけコミュニケーションを取っているのか?また、今まで歩んできた中で、教会であっても、家庭であっても、一つのファミリーとして、どれだけ互いに大切にし合い、赦し合い、認め合ったのか?

 “主のご復活、おめでとうございます”

これからもよろしくお願いします

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初めまして 私はイグナシウス・クリスティアヌス・バサ(Ignatius Christianus BASA)と申します。

通常、「インセン」と呼ばれています。インドネシア出身です。

 1979年10月8日にインドネシアのフロレス島で生まれました。生まれた所も、育った所もフロレス島です。5人兄弟で、両親はまだ健在です。2009年10月18日、フロレスの神学校で神言修道会の司祭として司祭叙階されました。

 2010年に日本に来ました。最初の2年間は名古屋の南山大学で日本語を勉強しました。

 その後、2012年から2013年まで、1年間、長崎のルドビコ小神学校で指導司祭補佐として神学生と生活を共にしながら、色々なことを学ぶことが出来ました。長崎で自動車の運転免許を取りました。

 2013年から今年の7月まで岩手県の盛岡市の四ツ家教会に居住し、仙台教区の第三地区(岩手県の八つの小教区)で働かせて頂きました。そして、11月からこちらの平針教会で助任司祭として働くように任命されました。主任神父様の森山神父様をはじめ、皆様と、この教会共同体の一員として皆様に関わっていくことになりました。私自身、分からないことはまだまだいっぱいあると思いますが、主任神父の森山神父様、また皆様にいろいろ教えて頂きながら働ければ大変嬉しく思います。

 聖書の中に、イエス様がサマリア人の地域に入られた時て、一人のサマリアの女に「水を飲ませてください」と願う場面があります。これは、ある意味でイエスご自身が「サマリア人との関係を作り、また協力を願っておられること」を意味していると思います。

 これから私が「この教会共同体で奉仕する」ということは、ある意味で「皆さんの地域に、皆さんの世界、皆さんの中に」、入るということだといえます。ただ、私自身、自分の力だけで奉仕するのは、足りないと思います。ですから、皆さんの「支えとご協力」という「行きた水」をいつでも飲ませていただければ、大変ありがたく思います。どうか、よろしくお願いいたします。




森山神父様からのお別れのご挨拶

平針教会での十年  ―  森山

 私の小教区勤務は十年が基準のようだ。東京・吉祥寺教会、愛知県・半田教会、吉祥寺教会、平針教会と大体十年単位で移動させられている。「させられている」というのは、実は私の本意、計画的な長さではないからだ。

 平針を離れるに当たって私の小教区にかかわる姿勢を披露し、どのようなものだったかを記したいと思う。まず、私は司祭叙階された時、将来教育の場で仕事をするように任命を受け、東京で神学研究生活をはじめた。吉祥寺教会に居候しながら大学院に通ったが、その間、教会に来る人の姿を目にした。それは健気に、純粋に「キリストに接したい」「救いを求める姿」に見えた。しかしそのような人への対応する教会側・司牧者側はどうだったか。

 私は二年の研究生活を終え、小教区活動に転じることにした。それから私の小教区での仕事が始まった。その時の基本的な姿勢は次のようであった。▽地域に愛される教会の姿を。▽二十四時間対応する教会。▽どのような人が来ても対応できる教会。▽どんなことにも対応できる知識を。▽信仰について常に深める勉強を。▽どんな人も大切にする姿勢を。▽「常識人であること」などであった。これは修道・司牧・宣教生活の中で今でも変わらない。

 教会にも司牧者にも、「現実的には」限界がある。しかし、「理想的には」この基本的な姿勢は崩せない。ここ平針教会でも同じ心がけで、仕事をしたつもりである。至らないことが多々あったこと詫びたいと思う。信徒の皆さんは、今後いろいろな司牧者に出会うだろう。それぞれの司牧者のやり方がある。神学がある。信仰がある。其々の良さがある。その中で学んでほしい。おそらく不足を感じることがあると思うが、自分の信仰を深めていってほしいと思う。「教会は福音との出会いの場」「安らぎの場」っであって欲しい。

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  プロフィールと歴史

カトリック平針教会の高い鐘楼

「カトリック平針教会」は、日本26聖人殉教者記念教会として 1979年に創設されました。

京都から長崎までの苦難の道のりを歩み殉職された「日本二十六聖人殉教者」に捧げられた教会です。

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  初めての教会

十字架のイエス様

主イエス・キリストの教えに興味 がある。 教会に行ったことはないけれども、一度行ってみたい。

知り合いがいなくて行きづらい。 そのような方へのご案内です。

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  十字架の道行きの祈り

秋山康恵氏、弟子の足を洗うイエスのレリーフ

聖堂内に秋山康恵氏による、イエス・キリストが 十字架を担って歩んだ 受難の道のりを 描いたレリーフが掲げられてます。ひとつひとつの場面を心に留めて祈り、黙想します。

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築35年経った私たちの教会の建物のリニューアル工事を行いました。

「錆びた部分」「劣化した部分」「タイルの剥離」「汚れ」「雨漏り防水」など工事でした。

 今後も末永く私たちの「故郷の教会」として存続していけるようにご協力をお願いします。

 目標金額は3年間で、リニューアル費用と同額の1500万円にしたいと思います。

  • 1家族、お一人様の献金額は特に定めておりません
  • 1口1,000円を基準に「毎月」でも、「まとめて」でも結構です。
  • 専用の封筒か振込用紙を利用して、献金くださいますよう、お願い致します。
  • 郵便振替口座番号  00860-1-105898    加入者名 カトリック平針教会
教会リニューアル工事献金のお願い



森山神父からのメッセージ

 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」という創世記の一節は人間がどのようなものであるかを教えていると思う。

 十年前に平針教会に来たときは、それまで修道会で、小教区で「現役として」、勉強を深め、経験を積んできたつもりだったので、後はのんびりと思っていたが、この十年でそれまで以上に「悟る」ことが多かった。その一つが「人間について」である。人が生まれる、生活する、それぞれに順境があり、逆境があり、そして変化し、それぞれの人生に長短はあるが必ず終わりを迎える。それらを他人事ではなく自分の事と感じられるこの十年であった。

 人が「生まれること」は「創造されること」であり、時間と空間に存在し始めるが、同時に「永遠なるものとして存在し始めた」ことではないか。キリストの復活は、人間が永遠なる存在であること示し、その存在にふさわしい生き方を示しておられると思う。

文責 森山 勝文

平針教会だより247号 より




【神父のやぶにらみ】  ・最終稿

 吉祥寺教会にいるときにお世話になった大学病院に、その後20年近く通っている。病名は生活習慣病とかで日常生活に特に障害はない。東京まで車で出かける。名古屋に来る前、軽井沢に一年いた時も通った。この遠距離をどれくらい走っただろうか。だた、診察のためだけでなく、そのついでに、お世話になった方を訪れたり、高齢者を訪問したり、墓参に行ったり、その道中を無駄にしないようにしている。

 高速を走りながら考え事をする。風景は変わる、道路も変わる。走っている車も変わる。変わらないのは、住んでいる人、人が住んでいることは変わらない。山の中、谷間、海沿いで川沿いに家がある。密集したところもある。風景の中に、人間の生活の痕跡を感じながら、あそこにも、ここにも人の歴史があり、喜怒哀楽があったのだろう、また村々、町々にはそれぞれ歴史があり、どの様に生きていたのだろう。そこで生まれ、そこで成長し、家庭を持ち、死んでいく姿が目に浮かぶ。どこにもそこで生きた人の大切な歴史があり人が生きた証がある。

 旧東名高速道路は町々をつなぐように走っているが、新東名高速道路は、すべてを貫き、東京に向かう。山があれば、トンネルを掘り、山はを削られている。谷があれば、埋め立てたり、橋をかけたり、ひたすら水平に、まっすぐに進む。その道中には歴史はない。日本の土木技術の高さを誇るように、便利さに貢献している。

 「どこまで便利さと利益を求めるか」。日本の社会の根本的な問題を暗示している。 新東名高速道路は輸送の大動脈として、大型のトラックがうなり声をあげて走る。広いサービスエリアは大型のトラックで埋め尽くされている。長年走っていると、その走り具合で、世の中の景気を感じることがある。

文責 森山 勝文

平針教会だより248号 より




インセン神父からのメッセージ

 灰の水曜日から私達の四旬節が始まります。この四旬節は清い心で復活祭を迎えるための大切な準備の期間です。でも、どのように心の準備をすることができるのでしょうか。それは施し、断食、祈りによって、私達にとっては恵まれる期間になるのではないでしょうか。四旬節は「40日の期間」という意味です。40という数は、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来していて、それにならって40日の断食という習慣が生まれました。

  四旬節に放蕩息子の物語をよく読まれます。この物語をよく考えてみると放蕩息子自身は、「暗闇の人生から解放したい」という気持ちは確かに強く持っていたと思います。ただ、その「気持ちを持つこと」だけで、その後に何もしなければ、立ち上がって家に戻らなければ、父の元に帰らなければ多分これほど救われなかったと思います。四旬節に当たって、自分一人一人、また家庭生活、共同体生活の中で、改めて振り返して、今まで自分の心の中に、放蕩息子のような人生があるならば、いわゆる「家族内の関係、夫婦関係であり、親子関係であり、兄弟関係であり、また共同体会員との関係」に対して、「あまりうまくいかない時もあると思います。しかも、心とのぶつかり合う」という問題もしばしばあると思います。ここで、放蕩息子の模範に習い、「回心の気持ちを持って、古い人間を脱ぎ捨て、救いの恵みの道へ向かって出発しましょう」。聖パウロがおっしゃったように、回心の気持ちによって、神に対して、また他人に対する愛がますます豊かになります。

  四旬節中、私達は自分の中にある荒れ野、つまり孤独、病、不都合などの荒れ野の生活に負けないように神様の言葉に従って生きなければなりません。誰かが苦しみの中にあっても希望を持ち続けるなら、神様はその人を祝福し、神の栄光を見るでしょう。

イグナシウス・クリスティアヌス・バサ神父(通称インセン神父)

平針教会だより247号 より